2011年6月3日金曜日

マニング・マラブルの遺作『マルコムX:作り直された人生』:序文抜粋

マルコムX研究の第一人者、マニング・マラブル コロンビア大学教授の遺作となった話題の(物議をまき散らしている!)新刊書”Malcolm X: A Life of Reinvention” (『マルコムX:作り直された人生』)の序文から(訳:大竹秀子)



1965年2月21日は、多くのアフリカ系アメリカ人の記憶に深く刻まれている。ジョン・F・ケネディとマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの暗殺がほかのアメリカ人の記憶に刻まれているように。マルコムXの信徒たちは、死後の騒然とした余韻がさめやらぬうちに、「ブラックパワー」というスローガンを受け入れ、彼を宗教色を離れた聖人に祭り上げた。1960年代後半までには、マルコムは一世代すべてにとって、黒人であることの理想の体現者になっていた。W・E・B・デュボイスと、リチャード・ライト、ジャイムズ・ボールドウィンと同じく、彼はレイシズムが黒人たちに課した心理的・社会的な犠牲を弾劾し、妥協のない行動を取った人物として広く敬われるようになった。彼に先立って公民権運動の中心となった、非暴力でミドルクラス指向のニグロ指導層とは正反対の場所にマルコムは位置づけられた。



生前も死後もマルコムにもっとも密接に関連づけられた指導者は、もちろん、キングだった。しかしながら、若年期の多くをアトランタという都市で過ごしたにも関わらず、キングがゲットーの黒人代表とみられることは、まずなかった。暗殺から10年もたつと、彼は南部の農村と小さな町のイメージと結びつけられた。逆に、マルコムは現代的なゲットーの産物だった。彼が示した感情的で激しい怒りは、人種隔離された都会の学校、標準以下の住居、高い死亡率、ドラッグ、犯罪など、都市を背景とするレイシズムへの反応とみなされた。1960年代までには、圧倒的に多数のアフリカ系アメリカ人が大都市に住んでいたため、彼らの生存を規定する条件は、キングが代表したものより、マルコムが語ったことに近かった。このため、マルコムは都市の黒人たちの間に強力な聴衆を確保することができた。彼らは受け身の抵抗は、制度的なレイシズムを打破する道具として不十分だとみたのだ。



怒れる黒人の闘士から多文化的なアメリカ人へ、というマルコムの後年の変身は、アレックス・ヘイリーとの共著で暗殺から9ヶ月後に出版された『マルコムXの自伝』の驚くべき成功の産物だ。出版された年にベストセラーになったこの本は、まもなく数百ものカレッジや大学のカリキュラムで標準的教科書の地位を確立した。1960年代後半までには、まるまる一世代のアフリカ系アメリカ人の詩人や作家が彼らのくずおれた偶像に敬意を表する作品を、果てしなく生み出し続けた。彼らの想像力の中で、マルコムのイメージは永遠に凍結した。いつも顔いっぱいの、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべ、一点のすきもない身づくろいで、仲間たちの関心と強い願いを前進させる人物というイメージだ。


殺害の瞬間から、トロツキスト、黒人文化民族主義者、スンニ派のムスリムなど、互いにおおいに異なる集団が、マルコムは自分たちの一員だと主張した。数百の機関と町内会のクラブが、俳優のオシー・デイビスが弔辞で「私たちの男らしさ、私たち黒人の男らしさの生きた証」と呼んだこの人物にあやかって、組織の名を改称した。米軍のアフリカ系アメリカ人たちはマルコムX協会を創設したし、ハーレムでは、活動家たちがマルコムX民主党クラブを結成した。1968年に独立系映画プロデューサーのマーヴィン・ワースはジェイムズ・ボールドウィンを雇い、『自伝』を下敷きにした映画の脚本にあたらせた。それは、この小説家が「こっそり教えてあげよう。― 映画は、好奇心をそそるこの場所と時代に生きたすべての黒人の男の話なのだ」と述べた物語であった。1970年代初めまでには、マルコムXの妻のベティ・シャバスが、リチャード・ニクソンの再選を促進するワシントンDCでの資金集めパーティに賓客として招待されるまでになった。


1990年代初期のマルコムX人気のルネサンスは、主として「ヒップホップネイション」の勃興のおかげだった。たとえば、ミュージックグループ「パブリック・エネミー」のビデオ「シャッデム・ダウン( "Shut 'Em Down" )では、マルコムXの画像が、米国の1ドル札のジョージ・ワシントンの顔に重ねられた。別のヒップホップ・グループ「ギャング・スター」は、CDのカバーにマルコムのポートレイトを使用した。 政治的な保守派もマルコムを自分たちの神殿に取り込もうと努力を重ねた。たとえば、1992 年にロサンゼルス人種暴動の余韻がおさまらない頃に、ダン・クエイル副大統領は、マルコムXの自伝を読んで、このような社会的動揺の理由について重要な洞察が得られたと打ち明けた。せっかくの開眼ではあったが、大半のアフリカ系アメリカ人はバカバカしいとみなし、映画監督のスパイク・リーにいたっては、「マルコムXが『青い眼の悪魔』について語るたびに、クエイルは、あ、これ、僕のことだ!と思うんだろうね」とジョークを飛ばした。


同年、リーの上映時間3時間の伝記映画が公開され、マルコムは新しい世代の手に届けられた。1992 年の世論調査では、14歳から24歳の間のアフリカ系アメリカ人の84パーセントが、マルコムを「現代の黒人アメリカ人のヒーロー」とみていた。長年にわたり彼を現代黒人史の周縁に追放した末、歴史家たちは、いまさらながらマルコムを歴史の中心人物の一人と見なし始めた。彼は、「現代アフリカ系アメリカ人のアイデンティティを支える足場の欠くことのできない一部になった」、「音楽とダンス、ナイトクラブへの彼の強い興味は、黒人との絆を補強した」と、歴史家のジェラルド・ホームは書いた。しかしながら、多くの白人にとって、マルコムの魅力は、彼が戦闘的な黒人分離主義から多文化普遍主義と呼ばれるものへと回心したことにあった。米国主流派へのマルコムの同化は、―皮肉なことに―1999年1月20日にハーレムで、米国郵便事業がマルコムXの切手の発売を祝った時に起きた。切手発行に伴う広報資料の中で、米国郵便事業は、マルコムXは暗殺の前年に、人種問題に関し「より統合主義的な解決」の支持者になっていたと述べた。


マルコムXの人生の実際の細かい事実と併せて、「自伝」をより緊密に読むと、もっと複雑な歴史が浮かび上がってくる。『自伝』の評者の中でこの本が実は共作であったこと―とりわけ、20年間を米国沿岸警備隊員として過ごした後、引退したアレックス・ヘイリーが、彼独自の隠された意図をもっていたことを理解した人はほとんどいなかった。リベラルな共和党員だったヘイリーは、ネイション・オブ・イスラムの人種分離主義と宗教的な過激思想を軽蔑していたが、マルコムの私生活の苦悶の物語には、心惹かれた。1963年、この大変異なる2人の共同作業が開始された。マルコムは、道徳心の高揚の物語を提供し、ネイションの指導者エライジャ・ムハンマドの力を賞賛しようと骨折り、この宗派を離れた後には、自伝を使い、黒人分離派からの自らの離脱を説明しようと試みた。ヘイリーの目的は違っていた。彼にとって自伝は、人生の無駄遣いと人種分離が生み出す悲劇について警戒を与える物語を意味した。多くの意味で、出版された自伝は、マルコムのものである以上にヘイリーのものだった。なぜなら、1965年2月に世を去ったマルコムには、彼の政治的証言として知られることになるはずだった主要部分を書き直す機会がなかったのだから。


『自伝』についての私自身の好奇心は、20年以上前に、オハイオ州立大学でアフリカ系アメリカ人の政治指導に関するゼミの一環として『自伝』を教えていた時に始まった。歴代のアフリカ系アメリカ人指導者たちの中で、マルコムは疑いもなく、最高部類の「政治的な」活動家で、労働者階級と貧しい黒人たちの手による、草の根の参加型政治を強調した人物であった。それなのに、自伝は、彼の主要な組織、「OAAU」について黙しているに近い。テキストのどこにも、OAAUの政策や目標が書かれていない。何年も調査を重ねた後、私は、出版前に数章が削除されていたことを発見した。―ブラック・ムスリムが指導し、さまざまな広範な政治的および社会的な集団によって構成されるニグロ統一戦線を構築することを構想した章だ。


ヘイリーによると、削除は、メッカから戻った後にマルコムが要請したものだと言う。おそらく、その通りなのだろう。だが、『自伝』の序文として、過去数年間マルコムを徹底的に取材していたニューヨーク・タイムズ紙の記者M・S・ハンドラーの紹介文を使うというヘイリーの決定を、マルコムは関知していなかったに違いない。また、ヘイリー自身によるとりとめのない結びも、マルコムのあずかり知らぬものだったろう。ヘイリーはその中で、『自伝』の主人公を生涯の最後に、主流の公民権の尊敬すべき人物という枠組みの中にいた人物として描いた。 だが、テキストをじっくり読むと、人名、日付、事実に一貫性が欠けていることが見えてくる。歴史家としてだけでなく、アフリカ系アメリカ人の一人として、私の心は魅了された。真実でない部分がどれだけあるのか、語られなかったことは、どのくらいあるのか。主人公の人生が複雑で多様な層をもつおかげで、歴史的証拠と事実に基づく真実の探求は、さらに複雑なものとなった。公共レトリックの達人だったマルコムは、フィクションの部分を含めた自分の人生の物語をいく通りにも芸術的に物語ることができたが、レイシズムに直面していた大半の黒人たちにとって、その物語は真実として響いた。幼い頃から、マルコム・リトル(それが生まれついての彼の名だ)は、外界から自分の内的自己を遠ざける、いくつもの仮面を作りあげた。何年も後になって、マサチューセッツ刑務所の獄房にいた時も、反植民地革命のただ中のアフリカ大陸をひとりで旅していた時も、彼は他人の行動を先取りし、自分を最大の効果でパッケージ化する二元的な能力をいつも備えていた。彼は自分の多様な聴衆の文化的な背景に合わせて言葉をつむぐ民族誌学者の器用な道具を手にした。その結果、異なる集団が、彼の人柄と進化を続けるそのメッセージを、自分たち特有のレンズを通して理解するようになった。どのような背景であれ、マルコムは魅力と健康的なユーモアのセンスを発揮し、イデオロギー上の敵の警戒心を解き、挑戦的で理不尽とさえいえる論議を進めることができた。


マルコムはいつも、誰でも近づける、親密で外向的なスタイルをとったが、いつも何かを内に秘めていた。いく層もの人格が、一連の異なる名前で表現された。マルコム・リトル、ホームボーイ、ジャック・カールトン、デトロイト・レッド、ビッグ・レッド、サタン、マラチ・シャバス、マリク・シャバス、エル・ハジ・マリク・エル・シャバス―そのいくつかは彼が自分で創りあげたものだが、残りは他人が彼に与えたものだ。どの人格もそれひとつでは彼の全体を捉えることはなかった。この意味で、彼の物語は、みごとな創造の連作だ。中でもっともよく知られるのが「マルコムX」の物語だ。


役になりきる偉大な俳優のように、マルコムは自分の生い立ちからいろいろな素材を引き出したが、時を経るうちに、実際のできごとと公に語られることとの距離は広がっていった。死後のその他の歪曲― 献身的な信奉者、友人、家族、そして対立者による潤色― とあいまって、彼の生涯は伝説と化した。マルコムは、官能的かつ動物的に多くの白人を魅了したし、演説を定期的に取材していたジャーナリストたちは、あからさまではないが疑う余地のない性的な意味あいをかぎつけた。マルコムは1964年3月はじめにインタビューのためにM.・S・ハンドラーの自宅を訪れたことがあった。ハンドラーは、マルコムの政治の特徴は肉体的能力がかもしだす独特の雰囲気にあるとみた。「我々の時代において、マルコムXほど白人の男の恐怖と憎悪をかき立てたものはいなかった。なぜなら、白人の男は、彼の中にいかなる代価を払おうと受け入れることができないぬきさしならぬ敵―黒人男性を解放する大義に臆することなく献身する男―を感じたからだ」。マルコム本人も、若い頃、自分の人柄を述べるのに、決まって刺激的なメタファーを用いた。たとえば、1946年にマサチューセッツ刑務所に服役中だった自分を語る際、彼は自らの監禁状態を、罠にとらえられた動物に例えた。「私は、檻に入れられた豹のように歩きまわった。大声で悪態をつきながら。ついに、独房棟の男たちは、私を『サタン』と呼ぶようになった」と。ハンドラーの妻は、マルコムが夫妻の家を訪れた時、家にいたが、「ねえ、なんだか、黒豹とお茶を飲んでるような感じがしたわ」と夫に語った。


しかしながら、黒人のアメリカ人にとっては、マルコムの魅力は、まったく異なる文化的イメージに根付いていた。彼を真に独創的にしたのは、マルコムが自らをアフリカ系アメリカ人の民俗文化のふたつの中心人物―はったり屋のトリックスターと、伝道師兼聖職者―の体現者として表現したことだった。ふたつの顔をもつトリックスターは、予測がつかず、途方もない破戒を行うことができた。 聖職者は、魂を救い、こぼたれた命をあがない、新しい世界を約束した。マルコムは黒人民俗文化の熱心な学徒で、政治的な主張を強調するために、いつも動物の話や、農村地帯のメタファー、トリックスターの物語を混ぜた―たとえば、ジョンソンとゴールドウォーターの話をするために狐とオオカミの話をアレンジした。彼の演説が聴衆を魅了することができたのは、そのテーマを究極の救いを約束する物語に練り上げることができたからだ。 マルコムは、自分の個人的な安全を一顧だにせず、黒人を強い存在にするために全身全霊で献身する妥協を知らない男として、自らを表現した。彼の政治を拒否する人々でさえも、その誠意を疑うことはなかった。 


パフォーマーとしての役者とパフォーマーとしての政治指導者との間の共通点にはあきらかに限界があるが、政治における作りなおしの芸術は、公的人物の過去の人生を選択的に再編成するよう要求する(そしてビル・クリントンが我々に教えてくれたように、ばつの悪いエピソードは削除するように)。マルコムの場合は、友人と親族が書いた回顧録を読めば、彼が自伝で描き出した、悪名高き無法者デトロイト・レッドにはおおいに誇張があったことがはっきりする。1941年から46年までのマルコム・リトルの実際の犯罪記録を見れば、彼が自分の犯罪歴を意図的に築き上げたという主張の裏が取れる。彼は自分の過去を素材にし、米国の刑事裁判と刑法制度内において、レイシズムがもたらす破壊的な結果を記録する寓話をつむぎ出したのだ。彼にとって自分自身を発明することは、黒人コミュニティの中でもっともはずれた場所にいる人々に手をさしのべ、彼らの希望を正当化するための効果的な方法だった。


©Hideko Otake

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