2017年1月25日水曜日

アンジェラ・デイビスの演説 抵抗の1459日 

2017 年1月21日、ワシントンでのウィメンズ・マーチで行われた、アンジェラ・デイビスのパワフルな演説です。(翻訳=大竹秀子)


私たちの歴史が厳しい試練を迎えている時、思い起こしましょう。私たち数十万人、数百万人の女性、トランスジェンダー、男性、若者。ウィメンズ・マーチのためにここにいる私たちは変革のパワフルな勢力―死にかけているレイシズム、ヘテロの父権制を再び立ち上がらせまいと決意している勢力の代表です。

2017年1月16日月曜日

バラク・オバマの原罪:アメリカの「ポスト・レイシャル(人種問題は終わった)」幻想

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの生誕を祝して、ガーディアン紙に先日、掲載されたキーアンガ=ヤマーッタ・テイラーの小論『オバマの原罪』を訳しました。オバマの時代にさまざまに勢いを得た市民アクティビズムの水脈と昂揚をブラック・アメリカに軸足を置いてたどっており、アメリカのアクティビズムのいまがよくわかります。もう政治家になんて任せてはおけないと、若者たちは悟ったのです。(大竹秀子)

ガーディアン紙 2017年1月13日 
"Barak Obama's Original Sin: America's Post-racial Illusion"

文=キーアンガ=ヤマーッタ・テイラー

このテキストは、大きな話題となったキーアンガ=ヤマーッタ・テイラーの著
"From #BLACKLIVESMATTER To Black Liberation" からの抜粋です。右は2016年レフト・フォーラムでのテイラー(photo=Hideko Otake)


2009年、新年が明けてからほんの数時間もたたないうちに、カリフォルニア州オークランドで数発の銃声が鳴り響いた。次期大統領オバマ・バラクの就任式をほんの数週間先にひかえた時だった。交通警官ジョハネス・メッサールが、電車のプラットフォームで、何の武器ももたず、手錠をかけられ地面にうつぶせに寝かされていた22歳の黒人を撃ったのだ。オスカー・グラントという名前の青年だった。

新年を祝うイベントからオークランドへと戻って来た大勢の人たち大勢の人たちも交え、数十人が恐怖におののきながら事件を目撃することになった。グラントが殺害される瞬間を携帯電話で撮影した人もいた。オークランドの黒人たちの間で、瞬く間に怒りが爆発した。まず数百人、続いて数千人がストリートに繰り出して、正義を求めた。

このような激しい怒りは、状況の如何に関わらず起こったことなのかもしれない。だが、ほんの2~3週間後にこの国で初の黒人大統領が就任するというタイミングで起きたグラントの残忍な死は、冷や水を浴びせかけるようなショックを引き起こした。警察による暴力は、長年にわたり日常茶飯事だったが、アメリカはすでに人種差別を脱し別世界にいるはずだった。2008年にブラック・アメリカに蔓延したオプティミズムは、はるか遠くの出来事に思われた。

地元でグラントの家族が中心になって起こした、警官メッサールの起訴と裁判を検察官に要求する運動はベイエリア全域に広がった。抗議行動、デモ、学生のアクティビズム、集会、運動を組織する会合などから圧力を受けて、地元当局はメッサールを殺人で起訴するにいたった。「職務中」のカリフォルニア州警官が殺人罪で裁判にかけられるのは、15年ぶりだった。

最終的に、メッサールは非故意故殺の判決を受け、刑務所で1年も過ごさぬうちに釈放された。だが、地元でのこの運動は、その後に起こることになる出来事の前兆となった。

オバマ大統領は、候補者時代のオバマとは違っていた。候補者だった時には、選挙運動を演出し、まるで社会運動ででもあるかのように見せていた。魔法をかけたかのように多くの希望を、とりわけアフリカ系アメリカ人の間に呼び起こした。だが、期待が大きかったからこそ、失望はさらに大きかった。

‘Yes, we can’


2008年の白熱した民主党予備選で、オバマはイラク戦争への反対を明言しグアンタナモの軍収容所の閉鎖を公約して、エスタブリッシュメントの候補、ヒラリー・クリントンと一線を画した。選挙戦が進むにつれ、オバマは経済格差について語り、またしても口先ばかりの白人のお年寄り、ジョン・マケイン候補にまたしても投票することになるのかとぞっとする思いに駆られていた若者たちの心をつかんだ。

オバマの選挙戦に対する黒人大衆の熱狂は、人種間の連帯や逆襲にとどまらなかった。オバマは、2008年1月、ニューハンプシャー州での予備選後に行った演説で聴衆に強い感動を与えた。

私たちは、この国の人々に向けて偽りの希望を与えてはならないと警告されてきました。

でも、アメリカというこのありえないような物語をつむぐ国においては、かなわない偽りの希望など、これまでにありませんでした。ですから、勝ち目がなさそうな状況に直面しても、時期尚早だとか、できもしないことをやるべきではないと言われても、アメリカ人は何世代にもわたり、国民の精神を要約する、yes, we canというシンプルな信念で、応えてきたのです。Yes, we can. Yes, we can.


国の運命を宣言した建国の文書にも書き記されている信念です。yes, we can.

奴隷と奴隷廃止運動家たちが、もっとも深い夜の闇の中、自由に向かって道を切り拓いていた時に囁かれたことばです。yes, we can.

はるか彼方の岸辺から船出する移民が、過酷な荒野を西に向かうパイオニアが歌い上げたことばです。yes, we can … イエス、私たちにはこの国を癒やすことができる。イエス、私たちは、この世界のほころびを直すことができる。Yes, we can.


しかし、オバマが人種に関する包括的な演説を行ったのは、ようやく2008年3月になってからのことだった。中でオバマは白人投票者の危惧を鎮めながら、アフリカ系アメリカ人がもつ懸念にも向きあうという離れ業をやってのけた。

オバマは、何週間にもわたり、自分の教区の指導者であるジェレミア・ライト牧師を叱責するよう圧力を受けていた。ライトは、God Damn America (『くそったれ、なんてざまだ!アメリカ』)と題した説教を行い、アメリカが世界で行ってきた悪事に触れたことがあった。オバマの政敵たちは、この説教を掘り起こし、ライトの考えをオバマのものだと言いくるめようとした。オバマは、フィラデルフィアでの演説で、ライトから距離を置いた。ライトは「人々を分断させ」「その見解は、この国をひどく歪めて見ている」と述べたのだ。

さらに、ライトの怒りのコメントと呪詛の背景には、物心つく時代に差別が法律によって支えられており、その当時は黒人が資産をもつことなどを暴力的に邪魔だてすることが日常茶飯事で横行していたという事情があるとした。アフリカ系アメリカ人のビジネスは融資を受けられず、家をもとうにも連邦住宅公団のローンを得る手立てはなく、黒人たちは、労働組合からも、警察や消防署の職からも排除されていた。つまり、黒人の家族たちが、次の世代に遺せる富を蓄えることはできなかったのだ。

大統領選に出馬中の人物が、ここまで赤裸々に政府、そして社会全般におけるレイシズムについて語ることは、それまでになかった。とはいうものの、オバマのスピーチはまた、アフリカ系アメリカ人たちはアメリカをより完璧にするために「自分たちの生き方に全面的な責任を取る」義務があるとし、「アフリカ系アメリカ人の父親により多くの要求をし、より多くの時を子供たちとの時間に割き、子供たちに読みきかせをし、子供たちがその人生でチャレンジや差別に直面することがあっても、絶望やシニシズムに負けてはならないと教える」ようにとさとした。
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オバマのコメントは、アメリカの進歩とアメリカンドリームのバイタリティを称える形を取っていた。それでも、臆病と空疎なレトリックが幅をきかせるアメリカ政治の土俵では異例な発言だった。そういった意味では、オバマは型を破った。だが、同時に自らの人種問題への関わり方が、このコメントで確立させることにもなった。人種に絡んで、虐げられた人のために断固たる行動が求められる出来事に関して、そこまでやる必要があるのかと思えるほど公平な立場を取ろうと試みたのだ。

オバマは国の「原罪」と「暗黒の歴史」について雄弁に語ったが、いつも、過去の罪と現在の犯罪とを結びつけられなかった。現在、レイシズムがはびこり、警官が路上で通行人を停めては身体検査(ストップ・フリスク)を行い、サブプライムローンが黒人の買い手向けに用意されて、公立校はリソースを与えられず、2桁の失業率があまりにも通常化してしまったため、ほとんど気にかけられもしないという現状があるにも関わらず。

ファーガソンの事件が起きる前、オバマがフィラデルフィアで行った演説は、彼がアメリカのレイシズムについてもっとも誠実に話したものとされていた。だがその演説で彼の立ち位置は、まるで、自らが語る変革を達成しうる政治的影響力を持ったアメリカの上院議員というよりも、関心をもってみまもる観察者、アフリカ系アメリカ人と国全体との間を取り持つ思慮深い司会者であるかのようだった。

「情報通の観察者」


大統領になってからも、オバマは「情報通の観察者」の役割を続けた。

アフリカ系アメリカ人の間でオバマの支持率はいつも高かったし、これからも変わらないだろう。だからといってオバマや彼が進める政策が無条件の支持を得ているとみるのは間違いだ。共和党議員たちがオバマに対して臆することなく人種差別丸出しの扱いをする限り、黒人たちはオバマへのこうした攻撃は自分たちへの攻撃と受け止めて、オバマを擁護する。

しかし、政権発足後、まだ日が浅い頃、黒人コミュニティの間でまだ不況が真っ盛りで、その影響があちこちではっきりと感じられた時には、黒人大統領とその基盤をなす民衆との間の齟齬がみてとれた。黒人の富みは消えていき、ブラック・アメリカは「経済の急降下」のただ中にあった。

黒人の失業率が2桁にまで高まると、公民権運動のリーダーたちはオバマに黒人の失業対策を考案する予定の有無を尋ねた。オバマの返答は、こうだった。「すべてのアメリカ人の利益に気を配ることが、私に課された特別な責任あり、米大統領としての仕事です。ですから、毎朝、目をさますと、最大多数の人々に大きな違いをもたらし、彼らがアメリカン・ドリームを生きることができるようにする政策を推進しようと努めています」

失望を生む答えではあったが、その失望が支持率に反映することはなかった。2011年、黒人失業率が13%を超えていた時、アメリカの黒人の86%はオバマ大統領の仕事ぶり全般を支持していたが、「ウォール街と大銀行への適切な監督の実施」に関しては、56%が失望を表明した。

アフリカ系アメリカ人たちは、オバマの大統領の姿勢は、人種差別問題に口出しすることで景気回復に向けた政権の努力の影響力をそぐことは避けたいとする、とみた。一方、オバマはアフリカ系アメリカ人たちの行動について公共の場でお説教する時には、まったく遠慮がなかった。子育ての技術や食べ物の選択から性風俗、テレビを見る習慣にいたるまで、まるで反黒人のステレオタイプの手引き書を読み上げているかのようだった。


黒人の子供たちの暮らしから親たちが「姿を消す」現状の背景には刑事司法制度が絡んでいる。そのことを語らずして黒人貧困労働者層に焦点を当てるのは、誠実さを欠く。

オバマが黒人の父親の不在について語る時、不均衡に多数の黒人男性が姿を消していることの背景にあるのは、逮捕と判決における大きな格差の存在だということには触れなかった。オバマの大統領立候補がメディアで討論される時、アメリカの司法政治システムがもつ黒人の身体(ブラック・ボディ)貪欲な食欲でむさぼっているということが語られることは、まず無かった。収監されているアフリカ系アメリカ人は100万人を数え、20歳から29歳までの黒人男性の4人に1人は司法刑事システムの管理下に置かれている。

第1期目の任期中に、警察の法執行と収監に関わる問題が山積みになり、ミシェル・アレグザンダーの著The New Jim Crow (『新たな黒人差別法』)が、大量投獄と司法制度全域にわたる腐敗により、黒人家族がさいなまれている恐怖を書き綴っていたが、オバマが特別な関心を寄せることはなかった。

こうした問題のいずれも、オバマと共に始まったわけではなかったが、アフリカ系アメリカ人がこぞって投票所に向かい彼に票を投じた時に、警察と収監の破壊的な影響のことを考えていなかったと思うのは、考えが甘すぎる。構造的な不平等がもたらす結果にオバマが進んで対処しようとしなかったため、アフリカ系アメリカ人の若者たちは、抜本的変革をもたらす大統領オバマの能力を信頼できなくなった。

「アメリカの春」のレガシー


大統領という地位を使ってアフリカ系アメリカ人のために一肌脱ぐことを拒否したオバマをアメリカの黒人社会が甘受せざるを得ないできごとが起きた。

トロイ・デイビスは、ジョージアの黒人男性の死刑囚だったが、多くの人々が判決は間違いであり、2011年秋に、彼が犯してもいない罪で死刑を目の前にしていると信じていた。

無実を訴えるデイビスの叫びは、孤独な叫びではなかった。何年にもわたる彼と姉のマルチナ・デイビス=コレイアの生命と無実の罪を晴らす闘いに、死刑に反対するアクティビストたちが加わった。2011年9月までには、彼を死刑囚監房から出そうと国際的なキャンペーンが進行していた。死刑執行日が近づくにつれ、抗議の輪は広がり、熱狂を増した。世界各地で抗議行動が起きた。デイビスの処刑を停めようとする国際的な運動が生まれ、グローバルな要人たちから大挙して支援が押し寄せた。

欧州連合およびフランスとドイツの政府は、アメリカ政府に処刑の中止を呼びかけた。アムネスティ・インターナショナルと元FBI 長官のウィリアム・セッションズも同様な嘆願を行った。ジョージア州選出の民主党上院議員ビンセント・フォートは、処刑を行う任務を課された人々に命令を拒否するよう呼びかけた。「注射担当チームのメンバーにお願いします。ストライキをしてください!命令に従わないでください!有毒な化学物質が流出しないようにしてください。もし、皆さんが参加を拒否したら、この非倫理的な処刑の実行を大変困難にすることができるのです」

 9月20日の夕刻、デイビスの処刑が近づくにつれ、世界各地の人々はオバマの発言や行動を心待ちにした。だが、結局、彼は何もしなかった。見解を述べることもなく、大統領の代理として報道官のジェイ・カーニーを派遣して、声明を出させるにとどまった。声明は、州が主導する処刑に大統領が介入するのは「適切」ではないと述べるだけだった。

つまるところ、黒人大統領は州の権利に屈服したのだ。

「ジェネレーション O」が、そして黒人大統領の力の限界についての新たに発見された理解が目をさました瞬間だった。それは、オバマを操る側近たちが主張したように、オバマが口出しできなかったからではない。オバマが介入することを拒否したからだ。

トロイ・デイビス抗議活動は、無駄にはされなかった。ジョージア州がトロイ・デイビスの命を奪った翌日に、アムネスティ・インターナショナルと「死刑を終わらせるキャンペーン(the Campaign to End the Death Penalty)は、抗議の『憤りの日』 (“Day of Outrage”)を呼びかけた。1000人以上の人々がデモ行進を行い、デモ隊の人々が最後にたどり着いたのは「オキュパイ・ウォール・ストリート」と名乗るウォールストリートの小さな野営地だった。

オキュパイの野営はデイビス処刑よりほんの1週間ほど前に始まったばかりで、勢いを得つつある段階だった。トロイ・デイビスのアクティビストたちがオキュパイのアクティビストたちと合同した時に、抗議の人々の間で、格差に反対するオキュパイと労働階級の黒人男性の処刑という不正義に対する闘いが直結した。行進を終えた後も、デイビスへの抗議のために立ち上がった人たちの多くは、そのままとどまり、ウォールストリートでオキュパイ野営の一員になった。それからしばらく、オキュパイのデモでは「私たち皆がトロイ・デイビス」(“We are all Troy Davis”.)というかけ声が人気だった。

オキュパイ運動は、1世代以上の期間において、アメリカの階級格差の最も重要な政治表現になった。「私たちは99%( “We are the 99%”)」というスローガン、そして運動が「1%」と残りの私たちとの隔絶を明解にしたことで、アメリカにおける物質的・構造的な格差への理解が進んだ。これは、階級の存在を否定することを常とする国で、アメリカン・ドリームは誰にでも手が届くというものではないという限界を理解する重要な1歩になった。

経済格差と人種格差との関係を明解に表現することはこの運動にとってたやすいことではなかったが、それでも、数百万もの庶民が失業や差し押さえ、立ち退きの重さに耐えかねている時に、民間企業を救済する政府に焦点を当てることで、オキュパイ運動は、アフリカ系アメリカ人をさいなんでいた最も重要な問題の一部に目を向けることになった。自分の家をもつ黒人たちが孤軍奮闘しているのを無視するのは難かしかった。オキュパイは、金融業界での企業の貪欲、ペテン、腐敗を明らかにすることで、アメリカ国内における経済的・階級的格差という概念を広く知らしめただけでなく、こうした問題とレイシズムを関連づけることにも貢献した。それを受けて行われた経済的格差をめぐる公開討論を通して、民主・共和両党が主張していた、黒人の貧困は黒人の文化に原因があるという言い分は筋違いだということが明らかになった。文化と「自己責任」という論議がこれによって一掃されたわけではなかったが、オキュパイに助けられて、政治の主流において、黒人の貧困をシステムの産物だとする見方を含める別の説明を求める余地が生まれた。

また、非武装で平和的なオキュパイの野営に対してその年の冬から2012年初頭までに行われた、凶暴な攻撃と弾圧も、アメリカの警察活動に関し、警察とは政治的エスタブリッシュメントとエリート支配層に仕える下僕だという教訓を与えることになった。警察はレイシストであるでけでなく、現状維持のための突撃隊であり、1%.のためのボディガードだったのだ。

「もし私に息子がいたらトレイボンそっくりだっただろう」


ターニングポイントになったのは、2012年冬に起きた、フロリダ州サンフォードでのトレイボン・マーティン殺害事件だった。57年近く前のエメット・ティルの殺害事件にも似たマーティンの死は「人種差別を超えた(ポスト・レイシャル)アメリカ」という幻想を引き裂いた。

1955年、ミシシッピ州で夏の休暇を過ごしていた少年ティルは暗黙の了解とされていた人種の境界線を超えたとして白人の男2人の手でリンチにかけられた。ティルの殺人は、「世界最高の民主主義国」の中枢で息づいている残忍なレイシズムを世界の目にさらした。この点を強調するために、ティルの母親マミーは、葬儀で敢えて棺の蓋を閉じず、自分の息子が「自由の地」でさんざん痛めつけられた末に殺害されたことを世界に示した。

マーティンにとががあるとしたら、それはフード付きのトレーナーを着て、家に帰るために道を歩き、携帯で会話し、自分のことに没頭していたということだけだった。いまでは脅威をもたらす厄介者として悪名高いが、当時は野心満々の警備員だったジョージ・ジマーマンは、マーティンをプロファイリングして目をつけ、911(警察)に緊急通報した。「この男は、見たところ、どうも怪しい。」「この男」と呼ばれたのは、コンビニで買い物して帰宅中の17歳の少年だった。
ジマーマンは少年を尾行し、対決し、あげくの果てに胸に銃弾を撃ち込み、その後まもなく少年は息を引き取った。到着した警察は、ジマーマンの説明を鵜呑みにした。マーティンは黒人だったので、まずは、攻撃を仕掛けたのは彼の方だとする見方が頭にすり込まれており、だから警察はそのように扱った。警察は遺体に「身元不明」というタグをつけ、彼が近所の住人ではないか、行方不明者ではないかと調べてみる労を取らなかった。

だが、この出来事の噂がニュースメディアを通してゆっくりと広がり始め、詳細が世に知られるようになると、マーティンが法律違反の殺人の犠牲者だということが明らかになった。トレイボン・マーティンはリンチにあったのだ。

数週間もたたないうちに、アメリカ各地で抗議運動がわき起こった。要求は簡潔。ジョージ・ジマーマンをトレイボン・マーティン殺害で逮捕せよ、それだけだった。怒りに火をつけた原因のひとつは、ダブルスタンダードが過ぎたことだ。もしもマーティンが白人でジマーマンが黒人だったら、ジマーマンは即刻、逮捕されるか、もっとひどい目に会っていたことだろう。

トロイ・デイビスの時と同じで、抗議は全国各地で行われ、今度はもっと広くきわたった。これには、オキュパイの影響があった。オキュパイによりストリートでの抗議や占拠、直接行動全般が、再び正当性を得ていたからだ。ひと冬前に警察による弾圧で散り散りにさせられていたオキュパイのアクティビストたちは、勢いを増すマーティンへの正義を求める闘いに、新たなすみかを見いだした。フロリダとニューヨーク市では抗議者の数は数千人に達し、もう少し小規模ではあったが全米各地で抗議活動が繰り広げられた。

何週間も、オバマは質問をはぐらかし、地方自治体当局が対処の任に当たるべき問題だとコメントするにとどまった。この事件に関してオバマが公的な場で発言したのは、1ヶ月以上たってからで、そのことばは「もし私に息子がいたら、トレイボンそっくりだっただろう」であった。

しかし、彼はこうも述べた。「アメリカのすべての親は、我々がこの事件のあらゆる側面を調査し、連邦、州、自治体すべてが一緒になって、この悲劇がいかにして起きたかを正確に把握することが、この上なく重要であると理解してくださると思います」

オバマは人前であけすけに語ることはできなかったが、それでも発言を行ったという事実から、数週間かけて構築されていた街頭での抗議活動が勢いを得ていたことがうかがえる。マーティンの殺害は、国内的にも国際的にも当惑を引き起こす出来事だった。黒人の民衆たちは、大統領であるオバマには警察の暴行に反対する社会運動の先頭に立つことはできないことを承知していた。だが、オバマはどうして、その地位を使い黒人の痛みと怒りの声をより大きな声で語ることができないのだろう? 黒人民衆は、まさにこのような時のために、オバマをホワイトハウスに送っていたのだ。

抗議活動がいつ運動へと進化するのか、その特定の瞬間を知る、あるいは予測するのは不可能だ。トレイボン・マーティンを冷血に殺害してから45日後に、ジョージ・ジマーマンはついに逮捕された。何週間にもわたる抗議活動の成果だった。多くは、公民権運動のエスタブリッシュメントたちによる保守的な管理を超えて、ソーシャルメディアを通して組織された行動だった。

逮捕から1年以上たった2013年夏, ジョージ・ジマーマンはトレイボン・マーティン殺害裁判で無罪判決を受けた。ジマーマンの無罪放免は、黒人が背負う重荷を浮き彫りにした。死んだ後でさえ、マーティンは「悪漢」として非難され、攻撃を行ったジマーマンが被害者として描かれた。判事は、原告と被告の両方に対し、ジマーマンがなぜマーティンをターゲットにしたかを説明するためばかりでなく、法廷で「人種プロファイリング」ということばを一切、口にしないよう指示した。

オバマは国民に向けて、こう語りかけた。「この事件が強烈な感情を生んでいるのは、知っています。そして、判決後、そうした熱い思いがさらに高まる可能性があることもわかります。しかし、我が国は法治国家であり、陪審団は結論を出したのです。我々は一人の人間として、一社会として、どうすればこのような悲劇が今後起こらないようにできるか、自問する必要があります。市民として、それが我々全員の職務なのです」

法が不平等に執行されるとき、「法治国家」とは何を意味するのか?司法刑事システムは二重構造をなしている。ひとつはアフリカ系アメリカ人用、もうひとつは白人用だ。その結果、アメリカの司法管轄区のあらゆる局面を通して、刑罰の格差が生まれている。ジョージ・ジマーマンは、この二重構造のシステムから恩恵を得た。彼は、抗議による圧力で当局が逮捕せざるを得なくなるまで、何週間も自由の身で大手を振って歩きまわることができた。トレイボン・マーティンの遺体は薬物検査されたのに、ジマーマンはそんな検査の対象にならなかった。こうした二重の基準は、アメリカが法の規則に則って築かれた国であるという建前に基づく宣言をむしばんだ。静かな内省というオバマの呼びかけは、彼が答えをもっていないと語るに等しかったのだ。

この判決への絶望から、コミュニティ・オーガナイザーのアリシア・ガルザはフェースブックに、シンプルなハッシュタグ、 “#blacklivesmatter”を投稿した。マーティンにのっけから疑惑を抱き、警察がこの少年の身元を探そうともしなかったという事実の背後に潜む人間性抹殺と犯罪人扱いに対して直接語りかけることばだった。

黒人の命の価値を日々、貶めている抑圧、不平等、差別に対する回答だった。

“black lives matter “(黒人の命も大事)という3つのシンプルなワードの中にすべてがこめられていた。

ガルザはさらにアクティビスト仲間のパトリス・カラーズ、オパル・トメティと共に、このスローガンを同名の組織
#BlackLivesMatterへと発展させた。

ジマーマンの無罪判決に刺激されて、シカゴを拠点にする重要な団体Youth Project 100 (BYP 100) も生まれた。全米コーディネーター役のシャーリーン・キャラザースは、判決についてこう述べた。「この心の痛みの原因は、必ずしもジマーマンの無罪判決によるものではないんじゃないかと思います。むしろ、この国で不正義がまたしてもまかり通ったこと、黒人にとってそれが『またか』という出来事であることへの痛みです。」

犯罪現場だったフロリダでは、ウミ・セラー(かつてはフィリップ・アグニューという名だった)とその友人たちが、「ドリーム・ディフェンダーズ(the Dream Defenders)」を結成し、判決に抗議して、フロリダ州知事リック・スコットのオフィスを31日間、占拠した。「ジョージ・ジマーマンが無罪を祝っているのを目にして、底知れない・・・挫折を感じた。あの瞬間を忘れることはないだろう。・・だってあの晩のうちに判決が出るなんて予想すらしていなかったし、それが無罪の判決だなんて思いもかけないことだった」。

セラーは製薬販売の仕事をやめてフルタイムで組織結成のために働くオルガナイザーになった。

次のトレイボンになるのが誰なのかはわからなかったが、携帯の利用とソーシャル・メディアのおかげで、警察の暴行事件が世に広まるペースが速くなったのは間違いない。こうしたツールを手に入れることで、被害者の家族は、もう主流メディアの関心にただただ頼らずにすむようになった。事件を世間に直接、知らせることができるのだ。

一方、大量動員、街頭デモ、その他の直接行動を通してレイシズムと闘う数々の組織が設立されていることは、エスタブリッシュメント化し戦術的にも政治的にもより保守的な路線を取る勢力に対して、新たなブラック・レフトが開発され主導権を求めて競い合するようになってきているのも明らかだ。

オバマをリーダーとする 黒人の政治エスタブリッシュメントは、最も基本的な仕事を達成できないことを繰り返し明らかにしてきた。それは、子供たちの生命が奪われないようにすることだ。

若者は、自分たちでやるしかないのだ。

2017©Hideko Otake