1968年、表彰台でブラックパワーへの敬意を表し、米国の黒人差別を抗議して掲げられた黒い拳は、メキシコオリンピック直前にメキシコシティで貧者のために闘い殺されたメキシコの若者たちへの連帯も示していました。ジョン・カーロスは当時23歳。世界の晴れの舞台で信じることを訴えたがために、苦難と悲劇の嵐にみまわれた。へこむことなくいまなお、「オキュパイ」運動への連帯を語るカーロス。そしてもう一人のヒーロー、オーストラリアの白人選手ピーター・ノーマンのエピソード。信念に貫かれたカーロスの言葉をデモクラシー・ナウ!のインタビュー(2011年10月12日)からお届けします。(翻訳: 大竹秀子)
インタビューの原文と動画リンク
1968年五輪の米国人メダリスト、ジョン・カーロスが語る「世界を変えた革命的なスポーツの瞬間」
この時の迫真のレースと表彰台での様子をYouTubeの映像で:
Mexico 68 olimpiadas "Black Power"
ナーミーン・シェイク: 公民権の象徴として国際的に名高い、ジョン・カーロスの回顧録がテーマです。1968年、オリンピックのメダル受賞者ジョン・カーロスとトミー・スミスはオリンピックの受賞式で国歌斉唱の間に米国のレイシズムに抗議してこぶしを高く揚げ差別に抗議するブラックパワー・サリュートと呼ばれるポーズを取りました。ドキュメンタリー映画「Not Just a Game」からその場面をご覧ください。ナレーターはスポーツライターのデイブ・ザイリンです。
アナウンサー:クエスタッドがいます。好調な出だしです。カーロスは、いつものように一群を引き離しました。トミー・スミスも好調です。レーン2のバムバックも強い。外側にはエドウィン・ロバーツがいます。ジョン・カーロスがトップです。カーロスとスミスが並んでいます。トミー・スミスが出ました!スミスが優勝です!こぶしをあげています!
デイブ・ザイリン:1968年のオリンピックで2人はゴールドとブロンズのメダルを獲得しました。その後に彼らがやったことほど、「政治」を排し、人畜無害、極度に商業化された現在のスポーツの世界ときわだった対比を示すものはないでしょう。1968年オリンピックのグローバルなステージで彼らはコマーシャル契約をキープするためにブランドシューズをみせびらかしたり、表彰台を利用したわけではありませんでした。2人には、伝えたいメッセージがあったのです。表彰台に向かいながら、靴を脱ぎ、手にもって素足で歩き2人は米国の貧困に抗議しました。リンチに抗議して首にビーズをかけました。ジョン・カーロスはジャケットのジッパーを開けていました。これはオリンピックの決まりに違反することでしたが、彼は故郷ニューヨークの、黒人・白人を問わず、労働者の仲間たちを代表したかったのです。そして2人はオリンピック史上でおそらくもっとも有名な姿勢を取り、国歌斉唱の間、こぶしをふり揚げて公民権運動への連帯を示しました。
シェイク: 世界各地の人々が目にしたオリンピックの表彰台でのブラックパワーへの連帯のポーズは物議をかもし、2人のキャリアを傷つけました。デイヴィッド・ザイリンのドキュメンタリー映画「Not Just a Game 」には、オリンピックでのこの事件直後に、ジョン・カーロスとトミー・スミスが行ったインタビューも登場します。
BBCインタビューワー: 皮肉屋はこう言うかも知れない。キミたちはすべてを手に入れた。宣伝になったし、メダルも手にした、殉教者の座までも。どう、応えますか?
ジョン・カーロス: 聞き捨てなりません。一緒に育った近所のキッズたちも冗談じゃないと言うでしょう。これから大きくなっていくキッズたちも。宣伝なんて冗談じゃない。トミー・スミスが言ったように、金メダルもたいしたことじゃない。僕らが求めているのは、人間であるという平等なチャンスです。僕らははしごから5段下におかれている。そして僕らがはしごに手をふれようとするたびに、僕らの手に足を載せて、のぼらせまいとするんです。
エイミー・グッドマン: 1968年メキシコシティでのオリンピックで銅メダルを受賞してから2~3週間後のメダリスト、ジョン・カーロスでした。
オリンピックでの連帯のポーズから40年以上たち、ジョン・カーロスは、スポーツライターのデイブ・ザイリンの協力を得て、回顧録を出版しました。『ジョン・カーロス物語:世界を変えたスポーツの瞬間』です。
ジョン・カーロスは生涯にわたる人権活動家で、「人権を求めるオリンピックプロジェクト」の創設メンバーです。デイブ・ゼイリンは、「ネイション」誌のスポーツコラムニストです。 デモクラシー・ナウ!へ、ようこそ。
カーロス: 光栄です。
この時の迫真のレースと表彰台での様子をYouTubeの映像で:
Mexico 68 olimpiadas "Black Power"
若者の叛乱で一触即発だったメキシコシティ
グッドマン: 当時のメキシコ・シティについて聞かせてください。1968年オリンピック当時のメキシコ・シティは市民にとって大変に苦難な時だったのですね。
カーロス: メキシコシティは大変な緊張、トラウマのさなかにありました。一触即発の状態だったんです。米国チームがオリンピックに行く前にメキシコシティで虐殺が行われました。数百人の学生と若い活動家たちが殺されたのです。メキシコには貧困にあえぐ人々があまりにも多いという事実に我慢できなくなった人々がオリンピックからの収益金がどう使われるのか、貧者の援助に宛てられるのかどうかを問題にしたのです。当局は、オリンピックの活動の場所を得るために、貧者を立ち退かせたがっていました。必要なあらゆる手段を使って、立ち退かせろという命令がくだりました。大勢の若者が短期間で命を落としました。死者の数はいまだにはっきりわかっていません。最初は50人と言っていました。それが、150人になり350人になりました。私の推定では、2200人近くではないかと思います。それほど多くが殺され─
グッドマン:トラテロルコ広場の虐殺ですね。
カーロス: その通りです。若者がたくさん殺されました。遺体を炉に投げ込み、灰にしました。そこに入らなかった遺体は海に運び、投棄しました。その間に、他の人たちを追い散らし、丘に追い込み、オリンピックが終わるまで戻ってこないように命じました。
グッドマン:当時、こういったことを知っていたのですか?
カーロス:何かが起きたことは知っていました。メキシコシティに着くまで詳しいことはわかりませんでした。何年もたってから、我々は、トミー・スミスとリー・エヴァンス、[ハリー・]エドワーズ教授と私の4人を、当時、あの若者たちとつなげ、関係づけようとする試みがあったということを知りました。我々が米国チームより先にメキシコシティに入っていたら、全員、失踪する羽目になっていたかもしれません。
グッドマン: [メキシコの若者たちと]同年配でしたね。
カーロス: そうなんです。当時、私は23歳になったばかりだったし、スミス氏は24歳、ノーマン氏は25歳になったばかりでした。
グッドマン: でも、同時に、スポーツ人生の絶頂でもあった。どうやってオリンピックに出場するようになったかを聞かせてください。
カーロス: 最初から、神が私をそういう道を歩ませたようです。アクティビズムが何なのか知る前の幼い頃から、私は活動家でした。悪名、名声共に高いとても多くの人たちに出会うような機会を神がどっさり作ってくださった。たくさんの出会いがありました。マルコムX,、アダム・クレイトン・パウエル。キング師には亡くなる10日前に会いました。キング師は我々がオリンピックをボイコットしようとしているのを正しい道だと感じ、メンフィスから戻ってきたら、ボイコットへの支援に参加したいから、ミーティングをもちたいと言っていました。残念ながら、彼がメンフィスから戻ることはありませんでしたが、キング師の魂は、間違いなくジョン・カーロスと共に勝利の表彰台にいました。
我々は、社会に向けてメッセージを発する必要があると感じていました。我々は世界各地を旅し、いつもハッピーな顔をしていましたし、我々の胸に書かれたUSAという文字は、米国ではすべてがスムーズに運んでいるかのような印象を与えていました。しかし本当は、何もかもうまくいっているわけではないというメッセージを表明したかったのです。実際、世界にそう信じさせようとしていたようにこともない状態ではありませんでした。オリンピックに行った時に、人々の良心は眠りこけていると感じました。何かショッキングなことをする必要があると思ったのです。人々の目を朝の3時か4時にさまさせて、「この連中はなぜ、自分たちのキャリア、人生、未来を危険にさらしてまで、こんなメッセージを表明しようとするのだろうと問いかけざるを得なくなるようなあからさまな表現です。我々は、これは自分の子供たちのために、孫たちのためだと感じていました。今日、我々がやることは、自分たちのためではない、我々の、そして全人類の未来のためだと。
グッドマン: レースは、どうでしたか。その後で、あの瞬間についても聞かせてください。
カーロス: レースは、ただの行為です。表彰台にのぼるために、表彰される資格が必要でした。何よりも大事なのは、表彰台に立つことでした。メッセージを発しようと決意してからは、私の頭の中では試合は二の次で、ともかく行って賞を取らねばという感じでした。表彰台に立つ必要がある、それうだけでした。レース自体については長い間私のために力を注いでくれた人たちがいましたから、試合に出るなら、その人たちのためにがんばりたいとは思いました。でも、オリンピックに行ったのは、レースのためではありませんでした。メッセージを伝えるために行ったのです。試合中に周りを見回して、相棒に「がんばれ、力を出し切れ」と言い、彼はそれに応じてくれました。
グッドマン: え、周りを見まわした?走っている最中に?
カーロス: はい、そうです。何度もまわりを見回しました。
グッドマン: 後ろを振り返った?
カーロス: そうです。
グッドマン: そんなことしてていいんですか?
カーロス: ふつうのレースでは、だめです。後ろをふりかえったりしてちゃいけない。でも、あの日、我々がやったことは何ひとつ普通ではありませんでした。私はやるべきことをやり、神が力を貸してくださった。首尾良く、表彰台に立てることになりました。思い出が頭をかけめぐりました。子供の頃、描いていたビジョン、キング師から得たメッセージ、第1次大戦について父が語ってくれた物語、ハーレムで黒人の子供として育った体験、米国とその歴史について学んだことなど。
ブラックパワーに敬礼
グッドマン: 表彰台での事を聞かせてください。
カーロス: はい。
グッドマン: あなたの他に、表彰台に立った人たちについて、そしてそこで皆さんが何をしたかを教えてください。
カーロス: はい。優勝者はトミー・スミスでした。金メダルの受賞者です。銀メダルを得たのは、オーストラリアから来たピーター・ノーマンというブラザーで、オーストラリア史上、最速のランナーでした。そして、次がジョン・カーロス。ピーターは、私たちのことをわかっていました。我々の願いと社会の中でのニーズについて理解していました。彼は、「人権を求めるオリンピックプロジェクト」のボタンを誇りをもってつける道を選びました。
スミス氏と私は、広く社会にわかってほしくていろいろなものをもっていっていたのですが、それを見せるチャンスがありませんでした。でも、表彰台では黒い手袋をはめました。この年、オリンピックが初めてテクニカラーでカラー放送されたからです。ですから、我々は、まず自分たちが誰の代表であるかをはっきりさせたかった。我々はまず自分たちの人種の代表であり、次に米国を代表していました。我々は「パワー」は—大半の人たちは、「パワー」という言葉を聞くと、破壊、解体、焼き討ちなどをイメージします。でも、そういう意味ではありません。パワーとは5人の黒人選手、皆が研ぎ澄まされていることを意味しました。どうやってこの世界をより良いものにできるかと全員が考え、一人として隊列から外れることなく、小石を動かすなど、どんな些細なことであれ一人一人に出来る事を考えるということです。何かをするためにひとつになる必要がありました。この5人がそのことを自覚してひとつになれば、その時にパワーが生まれる。なぜなら、5人がひとつにはなれば、ひとりで小石を動かすのとは違って、山をも動かすパワーとビジョンを得ることができます。手袋と拳で我々が伝えたかったのはそのことでした。
2つめは、私が首のまわりにかけていたビーズです。ビーズは南部で縛り首になり命を落とした人々の象徴を意味していました。大勢の黒人がただ肌の色だけで、或いは白人女性を見つめたというだけの理由で縛り首にされました。勇敢なことをする時には、このことを思い出さずにいられません。
次にスミス氏は首に黒いスカーフを巻いていました。黒いスカーフは、アフリカからの航海で船から投げ落とされたり、サメの餌食になった人たちの追憶のためでした。歴史の中で忘れられた存在、誰にも祈りを捧げられたことのない人たちです。
次に、私はUSAのユニフォームの上に黒いシャツを着ました。なぜなら、正直言って、私は米国の行為に恥じ入っていたからです。米国が史上行ってきたこと、そして特にあの頃、米国が我々に対してやっていたことに。その気持ちを表現したかったのです。小学校の頃から、この国は自由の土地だと教えられてきた。でも、表彰台に立つことになった時、米国が自由の土地だとは思えなかった。
また、私たちはズボンの裾をまくっていました。黒いソックスをはいて、靴ははかず、1960年代南部の─そしていまでも多くがそのままだと思うのですが─多くの子供たちの貧困を表現しようとしました。毎日、裸足で、10マイルも20マイルも通学しています。
グッドマン: 表彰台で頭を垂れましたね。
カーロス: 頭を垂れたのは、国旗への敬意からでした。国旗は多くを語り、国歌は多くを語っています。いつの日か、国歌で歌われていることに向けて人々にたちあがってほしいという沈黙の祈りをこめて頭を垂れました。国歌は、すべての人々の正義と自由、すべての人々の平等を歌っています。でも、実際はそうなっていませんでした。ですから、いつの日か、我々の行動によって、それを実現させたいという祈りでした。
グッドマン: お2人はオリンピックの表彰台に立ち、ブラックパワーに敬意を表してこぶしを振り上げ、頭を垂れた。黒いシャツを着て、裸足でした。リンチを忘れないようビーズをつけ、靴は表彰台の上に置いた。
カーロス: そうです。Pumaの靴を置きました。Pumaは黒人スポーツ選手を支援していることを世界に向けて知らせたかった。少なく共、私のトラックとフィールドでのキャリアではそうでした。ハイスクール時代からずっと。Pumaは、相手がスーパースターであるかどうかに関わりなく、シューズを提供してくれました。大変早い時期から、商品を売るためには、スポーツを始めようとしている人がスポーツになじみ、靴を必要になるようになってくれなくてはならないと理解していました。だから、ためらうことなく靴を寄贈していました。数百万ドルに及ぶほどの商品を提供していたのではないかと思います。
グッドマン:手袋を片方ずつつけていましたね。
カーロス: そうです。
グッドマン: 黒の手袋を、片方ずつはめていた。
カーロス: そうです。
グッドマン: ブラックパワーに敬意を表して、一人は右手、一人は左手。
オリンピックを牛耳っていた親ナチのブランデージ会長
カーロス:手袋は、トミースミスのものでした。トミーが手袋をもってきていたのは、まず何よりもアベリー・ブランデージと握手したくなかったからです。ブランデージは、我々にメダルを渡したがっていないという噂がありました。我々は—
グッドマン: アベリー・ブランデージとは誰ですか?
カーロス: アベリー・ブランデージは、当時、国際オリンピック委員会の会長でした。アベリー・ブランデージは、先入観にとらわれ、偏見の強い人でした。はっきりいって、偏狭な人物です。そんな彼が国際オリンピック委員会の委員長でした。ブランデージは、[先住民の血を引いた陸上競技選手で]オリンピックのメダリストのジム・ソープ、史上でおそらく最も偉大なスポーツ選手だと私が思っている人ですが、その彼の黄金時代にメダルを剥奪した人物です。ソープがノースカロライナでソフトボールか野球の試合の出て、2ドルもらったことがあるというだけの理由で、[アマチュア資格を喪失したとして]メダルをすべて取り上げたのです。ブランデージは、絶頂期のヒトラーをオリンピックのホスト役に招待しました。彼は、米国チームからユダヤ人選手が外されるように仕向けた。米国に向けて、我々はこの特定の時期にナチ・ドイツにいるのだから、「チームからユダヤ人たちを外したい」と言ったのです。と言うわけで、国際オリンピック委員会のような組織のトップとして、不愉快な人物でした。だから、トミーはそんな人に手を触れたくなくて、手袋をもっていったのです。
幸い、ブランデージ氏は、なにやら起こりそうだ風向きを感じて、関わり合いになりたがりませんでした。でも、私はトミーに手袋をもって行くように言いました。競技場に出るトンネルの中で私はトミーと一緒になり、手袋をどうしようかと2人で決めました。よく言われているのは、ジョン・カーロスは手袋を家に忘れて来てしまった、或いはジョン・カーロスは寄宿舎に手袋を置いてきてしまったという話です。でも、私は元々、手袋をもっていませんでした。スミス氏の手袋でした。
グッドマン: ひとつの手袋を、右と左にひとつずつはめようと、その場で自然に決まったんですか?
カーロス: その通りです。我々はいろいろなものをもっていっていましたが、準々決勝が終わってから、それを競技場にもっていこうと決めました。何かをしようと決めた時に、互いに何を持っているか知りたくなって、話し始めました。試合が終わったとき、もっていたものを全部、集、め表彰式に出る直前にトンネルの中で分配し、何をするか、どうやってやるかを決めました。
シェイク:ザイリンさん、アベリー・ブランデージ氏の意義について説明していただけますか?
ザイリン: もちろん。アベリー・ブランデージは20世紀のオリンピックの巨人で、オリンピックそのものといえる存在でした。シルバー・メダリストでもありました。いつも彼を征してゴールドメダルに輝いていたのが、ジム・ソープでした。興味深いことですが、ソープのメダルを後年、剥奪したのがブランデージでした。まさに、そんな人物なんです。
1936年のオリンピックをヒットラーが主催できなくなる可能性は大いにありました。米国のアマチュアユニオンで、ベルリンでの開催を阻止する動きがありました。ブランデージはドイツに飛び、ヒトラーに面会し、戻ってきてからこう言いました。「私はナチスドイツで大勢のユダヤ人たちと話をしたが、彼らはヒトラーを偉大な人物だと考えている、ユダヤ人の扱いはすばらしい」、ユダヤ人に会ったなんて大嘘です。彼はヒトラー政権下のドイツがオリンピック開催地として適切だという考えを売り込みました。そんなブランデージが1972年にまだいました。72年まで委員長で、75年に亡くなりました。まるでディック・チェニー症候群というか、「憎まれっ子世にはばかる」の典型です。
いやいや、まったく。アベリー・ブランデージとは、そんな人物でした。当時、ブランデージがジョン・カーロスとトミー・スミスの糾弾の一部だったのは、完全に理にかなっていました。メキシコオリンピックにいたるまで、何年にもわたり、彼は、「人権を求めるオリンピックプロジェクト」に関係した全員を脅迫していましたから。メキシコシティについた後、ちょっとでも変なまねをしたら何が起こるか分からないぞと。暗く恐ろしい脅迫でした。
グッドマン:あなたも、脅迫されたのですか、ジョン・カーロスさん?
カーロス: その通りです。オリンピックの前も、最中も、後も脅迫されました。生まれた時から脅迫されてたように思います。それでも、人生を止めることも、すべての人のためにより良い暮らしを作ろうとする試みもやめることはできません。脅迫を受けたからといって。イエス・キリストの時代にまでずっとさかのぼって繰り返されてきたことです。イエスは、脅迫を受けていました。それでも、彼はやめなかった。いつの時代も自らの命を犠牲にしてきた人々は、脅迫で思いとどまりませんでした。たくさんの脅迫をただ受け取った。ジョン・カーロスとトミー・スミスも同じです。そして、ピーター・ノーマンも。
グッドマン: ブランデージは、後に記者会見でメダルを剥奪すると言いましたね?
カーロス: 役員全員が宿泊していたホテル・ディプロマティコにやってきて、我々にそう宣告しました。不運なことに、我々もつれ合いと一緒に同じホテルに滞在していたのです。エレベーターで下までおりていくときに、彼らが無線のスピーカーに向かってスペイン語で話しているのを耳にしました。私はスペイン語を話しませんが、母は話せますので、スペイン語を聞けば、少しはわかります。我々のメダルを取り上げて、国外に追い出すと言っていました。ロビーにつくと記者とカメラマンがあふれていました。我々のまわりを取り巻いて、質問を浴びせ始めました。「オリンピックのメダルを我々から取り上げて、国内に連れだそうとしているのは知っています」と私は言いました、「一言、言っておきたいことがあります。スミス氏の考えはわかりませんが、ジョン・カーロス個人として皆さんに話したい。メダルそのものは、私にとって何の価値もありません。でも、私の子供たちにとってはすべてを意味するかもしれない。私は、このメダルを努力の末、勝ち取ったのですから。このメダルは誰かにもらったものではありません。誰かが私の家に突然やってきて、『キミをチームに入れることにする』と言ったわけでもない。設定された基準を私は満たし決勝戦に出場する資格を得た。そしてメダルを勝ち取った。ですから、ジョン・カーロスのメダルを取り戻したいのなら、軍隊を連れてくるように。このメダルを取り戻したいなら、そうでもする必要があるでしょう」。で、人々は退散しました。
この日曜[2011年10月16日]で、あれから43年です。当局は、「ジョン・カーロスとトミー・スミスのメダルを取り戻した」とウソをつき、それを広めています。なぜなら、彼らはメダルというごほうびを追い求めるよう、人々を訓練するからです。オリンピックに行き、このご褒美をもらうのが人生の理想です。ですから、人々がちょっと群れから外れようとすると、罰を与え、メダルをとりあげます。長い年月にわたって全員を検閲してきました。
シェイク:43年がたち、少なくとも米国では、今なら、同じような行為に異なる反応が起きると思いますか?
カーロス:今では大勢の人たちが1968年よりもずっと賢くなっていると思います。いまでは多くの人たちが脅しを当時ほどこわがらないと思います。ウォール街で今起きているように。大勢の若者が、もう我慢できないと言っています。43年前に我々が口にしたように。
グッドマン: 「ウォール街を占拠」運動を10日の月曜の夜に訪れ、総会で演説しましたね。「ウォール街を占拠」でティーチインも開いた。その時のビデオを観てみましょう。
カーロス:私は、ジョン・カーロスです。トラックとフィールドの選手でした。ご覧のように、私はシャツには米国の旗がついていますし、オリンピック運動の旗、メキシコシティの名もあります。メキシコシティという地名を見て、オリンピックと、米国の旗のことを考えるとき、今日、ここで開かれているようなすべての人々の正義と平等を求めるフォーラムを開いたために、命を落とした大勢の若者たちのことを思わずにはいられません。
グッドマン: 「ウォール街を占拠」でのジョン・カーロスでした。オキュパイの野営地では拡声器の使用が警察当局によって禁止されているので、人々は人間マイクの手法を使って、あなたの発言がこだまのように繰り返されました。当時あなたがなさったことと比べて、そして現在の人々の抗議の意義をどのように見ていますか?そして、振り返って、あなたのキャリアは、あの出来事の後でどのような影響を受けましたか?
家族を襲った悲劇
カーロス:痛みがありました。試合中は、光のただ中にいます。あのような発言をすれば、嵐が来るのは目に見えています。大変な嵐に何度も襲われました。2人ともその後、職を失いました。銀行に貯めてあったおカネは底をつき、収入は何もありません。友人だと思っていた大勢の人たちが去っていきました。なぜ、彼らが立ち去ったのか理解し、わかるまでにしばらく時間がかかりました。報復を恐れ巻き込まれまいとしたのです。子供達は、父親が誰だかわかると学校でばかにされました。最初の妻はあまりの重荷に耐えかねて、自ら命を絶ちました。傷だらけです。それでも、いつも繰り返して言うことですが、やらなければならないことは、やらざるを得ません。私の命が失われようと、妻が命を失おうと、子供たちがつらい目に遭おうと、私たちがメキシコシティでやったことは必要でしたし、正しいことでした。
グッドマン:表彰台にたって、米国国歌が演奏されていたときに、人々の反応はどうでしたか?
カーロス: 子供の頃に心に描いていたビジョンまさにそのままでした。表彰台に立ち国歌が演奏が始まると、皆が歌い始めました。それから、突然、我々がこぶしをあげると、皆が口を閉ざしました。皆が口を閉じ、スタジアムにまったくの沈黙が垂れ込めました。皆がショックに打たれ、そのショックを吸収しなければなりませんでした。そして、国歌を再び歌い続けようとしたときには、もう歌ではありませんでした。「この国歌をおまえらののどに詰め込んで息をつまらせてやる」と、叫んでいるかのようでした。試合はメキシコシティで開催されていましたが、米国から観客が大勢、やって来ていました。そして、彼らがまさにこの瞬間に自分たちの感情をぶつけてきました。日の光が消え、嵐が押し寄せました。表彰台を降りて会場を去ろうとすると、ブーイングがはじまり、罵声が起こり、スタンドからゴミが投げ入れられ始めました。スタンド内で小競り合いが起きているのが見えました。貧乏な低収入者の人もスタンド内にはいたんだと思います。彼らには我々の意図が理解できた。だから衝突が起きたのです。
それにしてもひどい状況でした。でも覚悟はできていました。子供の頃、神が私に与えてくれていたビジョンがあったので、それを元に心の準備はついていました。でも計算に入れていなかったのは、帰国した後で、この出来事が妻と子供達に与えた影響でした。若い頃、何かをするときには、それが正しいと思って実行します。でも自分が中心で家族のことはあまり考えに入れていない。ですから、私がオリンピックで行ったことについて後悔することがあるとしたら、家族の安全をもっとよく確保すべきだったということです。
シェイク: 帰国後の、米国でのブラックコミュニティの反応はどうでしたか?
カーロス:99.9パーセントは、賛成でした。でも残りの0.1
パーセントは、保守派で理解しませんでした。米軍で働く保守派は、これで黒人は100年後戻りだと言いました。老人がそう口にするのを耳にしたこともあります。でも、ごくごく少数です。本当に大勢の人たちが支持を表明してくれました。涙をこぼした人もいれば、「アイ・ラブ・ユー」「ヒーローだ」というひともいました。世界各地の人々が─アフリカに行けば、神とか王とか呼ばれます。大変多くの人々の心に触れることができました。
そして、時を経るとともに、進化していきました。最初は、黒人、有色人種、抑圧されている黒人の代表と見られていました。でも時を経て、さまざまな場所を旅するにつれ、あらゆるエスニックの集団に影響を与えたことがわかってきました。黒人にとどまりません。ラティーノにとどまりません。チェコスロバキアの人々も、あらゆる場所の抑圧されている人たちにに影響を与えたのです。地球上の抑圧されている人々のためのデモンストレーションだったのです。
グッドマン:結婚相手が自殺なさった?
カーロス:そうです。毎日、電話を盗聴され、尾行され、子供達が日々、変化していくのに耐えきれなくなったのです。
グッドマン:電話の盗聴、尾行というと?
カーロス:FBIやCIAなど魔術のような力を持つ人々です。電話にどんな事でも仕掛けられます。うちのテレビでは画面を通して私が目にしている以上のことを向こうから見られているんじゃないかという気がしてます。そのくらいのことは、彼らには簡単にできますからね。尾行されたり、「あなたの夫は外でこっそりこんなことをしていますよ」という匿名の手紙がいくつも届き、妻はパラノイアに陥ってしまった。何が本当で何がつくりごとか、わからなくなってしまったのです。ついにはもう耐えられなくなり、命を絶とうと決意しました。私の生涯の中で、あの日ほど心が痛んだことはありません。2番目は、どうやって子供たちを救えるか、どうやって子供たちを強くし、保護することができるのか?それがそれ以来、私にとって何より重要なことでした。子供たちを守りつつ、できる限り良い機会を与えることをどうやって可能か。神のお恵みで世界一すばらしい子供たちをもてたことを感謝しています。
グッドマン: 「人権を求めるオリンピックプロジェクト」とは何ですか?
カーロス:現状よりも良い社会を手にしたいと考えた若者たちの集団です。我々は誰でもきちんとした教育を受ける機会、家賃を払えるならどこにだって住む機会を与えられるべきだと考えていました。誰でも、清潔で健康的な環境で子供を育てる機会をもてるべきだとも。米国だけでなく、世界中でそうあるべきだと思っていました。モハメド・アリがタイトルを取り戻すのと同じくらいに、社会問題のことを気にかけていました。我々は、当時、偏見の塊だった南アフリカについての懸念と同じくらいに、アパルトヘイトでレイシストを問題にしていました。ですから、当時、スポーツも倫理的な性格をもつべきだと思い、オリンピックが門戸を開き、南アフリカやローデシアのような国を加盟させていることを問題にしました。中国がオリンピックの主催国になった時に、人々が中国国内で起きていることを問題視したのと同じです。オリンピックには倫理が関わってしかるべきなのに、人々は見て見ぬふりをしていました。
グッドマン:キング師は数ヶ月前に暗殺されていましたが、あなた方の動きを支持していたのですね。
カーロス:キング師はオリンピックボイコットを支援して、中心になって動こうとしていました。そう望み、夢みていたのです。
グッドマン: ボイコットを?
カーロス:オリンピックのボイコットです。オリンピックにアプローチしないという道の選択です。ボイコットが中止になったとき、オリンピックに行くべきか、家にとどまるか、悩み抜きました。でも私はオリンピックに行くことを選びました。メダルを取るというオリンピックの目的のためだけでなく、米国がその年、陸上のトラックとフィールドで世界一の国になるだろうと感じていたからです。他の人が参加してメダルを取ったとしても、きっとその人は、当時、ジョン・カーロスが表現したいと感じていたことを表現しはしないないだろうと思ったからです。
もう一人のヒーロー ピーター・ノーマン
グッドマン:ピーター・ノーマンをヒーローと呼ぶのは、何故ですか?ノーマンは銀メダルを受賞して一緒に表彰台に立った選手です。 お二人と一緒に表彰台に立ち、人権を求めるオリンピック委員会のパッチをつけていた。
カーロス: こんな風に思うんです。世界中の海辺の砂浜の砂の一粒、一粒。人間の命ってそのようなものだと。神が手をさしのべて、一握りの砂を手にし、「ピーター・ノーマン、トミー・スミス、ジョン・カーロス」と名付けた。そこにあるほかのどの砂粒もピーター・ノーマンにはなりえなかったと思うのです。世界の1000万人が一歩を踏み出して「僕はキミたちを支持する。このボタンをつけて、僕もキミたちを支援していることを世界に向かって示したい」というとは思えないのです。
そして、このことも考えてください。我々が米国に帰国したときに、みなが動顛していました。ノーマンの出身国のオーストラリアは当時、アボリジニーの人々に対して南アフリカとまったく同じことをしていました。米国に戻ったトミー・スミスとジョン・カーロスは、手ひどいバッシングにあいました。でも人々は町の片側に行き、スミス氏を痛めつけて「こいつをやっつけるのには、もうあきた。町の別の側にいって今度はカーロスを見つけ、痛い目にあわせてやろう」という風でした。でもノーマン氏はオーストラリアに戻っても、交替してくれる相手がいませんでした。叩かれ続けたのです。でも彼は決して我々を非難しませんでした。我々を否定せず、背を向けず、距離を置こうとしませんでした。アルコールに走り、神経衰弱になり、家庭も崩壊したし、─我々の家庭は皆、破壊されたのです─オーストラリアでオリンピックが開催されたときも、同国史上最高の短距離選手だったにもかかわらず、オリンピックの式典に何の発言力も役割も与えられませんでした。ピーター・ノーマンは、並外れた人物です。
グッドマン:白人選手でしたね。
カルロス:その通りです。
ザイリン:2000年のメルボルン・オリンピックで、聖火リレーから外さました。オーストラリア史上で最も多くの賞を得た短距離選手を完全に閉め出したのです。でも、ピーター・ノーマンの物語で本当に彼らしかったのは、サンノゼ州立大学のキャンパスにジョン・カーロスとトミー・スミスの23フィートの巨大な彫像が作られた時のことでした。ジョンから話してもらっていもいいし、私が話してもいいんですが。
カーロス:あなたから話してくれていいですよ。
ザイリン:OK。キャンパスにこのすばらしい彫像を建てると言う計画が決まりました。トミー・スミスとジョン・カーロスだけで、ピーター・ノーマンが立っていた場所は空白のままになる予定でした。その話を聞いたジョンは、「あ、それはだめだ。この計画には参加したくない。もし、ピーター・ノーマンがはいらないなら、彫像も作ってほしくない」と言い出した。すると、サンノゼ州立大学は、「でも、ピーターは、彫像に入れてほしくないと言っています」と言う。ジョンは、「OK。じゃ、学長のオフィスに行って、彼に電話しよう」と言いました。サンノゼ州立大の学長のオフィスからピーター・ノーマンに電話をすると、ピーター本人が電話に出ました。ピーターは、「ジョン、とんでもないよ」と言ったんでしたっけ?
カーロス:そう、「ジョン、とんでもないよ」と言いました。「そんなとんでもないことを聞きたくて、電話してきたのかい?」と。私は、彼に言いました。「ピート、気になることがあるんだ。どうして、この彫刻にはいりたくないんだい?僕から距離を置きたいのかい?僕らのことを恥ずかしく思っているのかい?」彼は笑ってこう言いました。「違うよ、ジョン」。彼はとても深いことを言いました。「いいかい、僕は、きみたちがやった行為をしなかった。でも心と魂の中で、キミたちの行為を支持していた。このまま、キミたちの彫像を建てるのがフェアだと思う。僕の望みは僕がいた場所は空白のママにして、僕がそこにいたということを述べた額をつけておいてほしい。そうしたら、世界各地からサンノゼ州立大を訪れて、1968年にキミたちがやったことを支持する人たちが、僕の代わりにそこに立ち、記念写真を撮ることができるじゃないか」これ以上に素晴らしいことはないと思います。私のパートナーで、心の片割れであるトミー・スミスだって、この件に関してはノーマンには及ばない。ピーター・ノーマンは、並外れた人物でした。
©Hideko
Otake
感動しました。若い彼ら3人の行動は、みんなの幸せを願う人々に勇気を与え続けます。未来永劫に。
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