2012年8月4日土曜日

オリンピックに斬り込んだブラックパワー:1968年メキシコオリンピックで米国の人種差別に抗議して黒い拳を揚げたジョン・カーロス

1968年、表彰台でブラックパワーへの敬意を表し、米国の黒人差別を抗議して掲げられた黒い拳は、メキシコオリンピック直前にメキシコシティで貧者のために闘い殺されたメキシコの若者たちへの連帯も示していました。ジョン・カーロスは当時23歳。世界の晴れの舞台で信じることを訴えたがために、苦難と悲劇の嵐にみまわれた。へこむことなくいまなお、「オキュパイ」運動への連帯を語るカーロス。そしてもう一人のヒーロー、オーストラリアの白人選手ピーター・ノーマンのエピソード。信念に貫かれたカーロスの言葉をデモクラシー・ナウ!のインタビュー(20111012日)からお届けします。(翻訳: 大竹秀子)

インタビューの原文と動画リンク 
ナーミーン・シェイク: 公民権の象徴として国際的に名高い、ジョン・カーロスの回顧録がテーマです。1968年、オリンピックのメダル受賞者ジョン・カーロスとトミー・スミスはオリンピックの受賞式で国歌斉唱の間に米国のレイシズムに抗議してこぶしを高く揚げ差別に抗議するブラックパワー・サリュートと呼ばれるポーズを取りました。ドキュメンタリー映画「Not Just a Game」からその場面をご覧ください。ナレーターはスポーツライターのデイブ・ザイリンです。

アナウンサークエスタッドがいます。好調な出だしです。カーロスは、いつものように一群を引き離しました。トミー・スミスも好調です。レーン2のバムバックも強い。外側にはエドウィン・ロバーツがいます。ジョン・カーロスがトップです。カーロスとスミスが並んでいます。トミー・スミスが出ました!スミスが優勝です!こぶしをあげています!

デイブ・ザイリン1968年のオリンピックで2人はゴールドとブロンズのメダルを獲得しました。その後に彼らがやったことほど、「政治」を排し、人畜無害、極度に商業化された現在のスポーツの世界ときわだった対比を示すものはないでしょう。1968年オリンピックのグローバルなステージで彼らはコマーシャル契約をキープするためにブランドシューズをみせびらかしたり、表彰台を利用したわけではありませんでした。2人には、伝えたいメッセージがあったのです。表彰台に向かいながら、靴を脱ぎ、手にもって素足で歩き2人は米国の貧困に抗議しました。リンチに抗議して首にビーズをかけました。ジョン・カーロスはジャケットのジッパーを開けていました。これはオリンピックの決まりに違反することでしたが、彼は故郷ニューヨークの、黒人・白人を問わず、労働者の仲間たちを代表したかったのです。そして2人はオリンピック史上でおそらくもっとも有名な姿勢を取り、国歌斉唱の間、こぶしをふり揚げて公民権運動への連帯を示しました。

2012年6月30日土曜日

ミシェル・アレグザンダー: 新たな黒人隔離:カラーブラインド時代の大量投獄

デモクラシー・ナウ・ジャパンのサイトに、日本語字幕付き動画「新たな黒人隔離:カラーブラインド時代の大量投獄」が載りました。リンクは、ここから。(大竹秀子)



人種差別が無くなったはずの米国。2人の活動家兼著述家、ランダル・ロビンソンとミシェル・アレグザンダーが、黒人のアメリカを語ります。
「トランスアフリカ・フォーラムの創設者としてカリブや中南米も含めたアフリカ系ディアスポラ社会ならびに米国のアフリカ政策の研究に力をいれてきたランダル・ロビンソンは新作小説Makeda(『マケダ』)を軸に奴隷として集団的記憶を根絶された黒人の体験をもとに記憶の力を語ります。一方、The New Jim Crow: Mass Incarceration in the Age of Colorblindness(『新たな黒人隔離:カラーブラインド時代の大量投獄』)が大きな話題を呼んだミシェル・アレグザンダーは、麻薬撲滅を錦の御旗にした1980年代後半以降の麻薬戦争が、貧困地区の黒人を狙いうちにし大量に刑務所に送り込み、不公平な量刑で違反者を重罪犯にし、出所後も投票権の剥奪を初めとするさまざまな公民権の制限を行い二級市民に陥れている仕組みを明かにします。二人に共通するもの、それは制度によって見えなくされているものを探り当て、明らかにし、自分たちをしばっているものから自らを解放する力にしていくことです。
http://democracynow.jp/video/20120113-3



2012年3月21日水曜日

追悼:フレッド・L・シャトルズワース師(3/18/1922 - 10/5/2011)

「米国のヨハネスバーグ」と呼ばれた激しい人種差別はびこるアラバマ州バーミングハムの牧師としてフレッド・L・シャトルズワース師は、公民権運動を自らも闘い、また闘う人々を助けた。1961年に「フリーダムライダーズ」の第1陣が近くのアニストンで暴徒の襲撃を受けた時には、ショットガンで武装した人々を率いて、救援にかけつけた。


「非暴力を信奉はしているが、まずは仲間を取り戻さねば」 こんな時には、あくまでも現実的なのだった。人種平等のための闘いという夢をかかげながら彼は現実を知っていた。迷うキング牧師のことを「マーティンは、時々、遅い。遅すぎるんだよ。考えこんで悩んでしまう。やらなきゃならない潮時ってものがあるんだよ」と叱咤激励することもあった。フリーダムライダーズの若者たちが非暴力を貫けたのも、シャトルズワース師のような人が脇を固めていてくれたから。201110月に逝去したシャトルズワース師の追悼記事を訳してみました。(訳:大竹秀子)
原文は、こちら


アラバマ州バーミングハム. (AP) — フレッド・L・シャトルズワース師が、亡くなった。公民権運動の闘いで爆弾の的になり、ぼこぼこに殴られ、何度も逮捕され、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア師にその勇気とエネルギーを称えられた人物だ。享年、89歳。

プリンストン・バプティスト医療センターのスポークスウーマンのジェニファー・ドットによると、シャトルズワース師はバーミングハムの同病院で(2011年)105日に逝去した。

シャトルズワースはトラックの運転手をしながら夜間、宗教を学び、1953年にアラバマ州バーミングハムのベセル・バプティスト教会の牧師になり、すぐさま人種平等を求める闘いのこわもての指導者になった。