「タビス・スマイリー」ショー: ゲスト:イザベル・ウィルカーソン
2010年12月23日放送http://www.pbs.org/wnet/tavissmiley/archive/201012/20101223_wilkerson.html
イザベル・ウィルカーソンの新著"The Warmth of Other Suns”(ほかの太陽のぬくもり)は、2010年に誰もが読めるアフリカン・アメリカン史、ひいては米国史の大きな収穫として話題を呼んだ本でした。正味500ページを超える大著ですが、南部から北部へと600万人もの黒人が移動し国のありようを変えた大きな事件を、移動した人、ひとりひとりの物語をまるで映画のシーンのようにきめ細かくまざまざと描くことにより、共同体のソウルフルな叙事詩に変えてくれます。
たまたまいま読み返しているサスキア・サッセンの"Globalization and Its Discontents"の序文で、アッピアがこんなことを言っているのをみつけました。「記録された歴史を通して、男と女は大変な距離を旅してきた・・・交易、帝国、改宗を求めて、奴隷として・・・そうして、遠く離れた場所のものと思想をあわせて、多くの場所の物質的・精神的文化が築かれた」。公民権運動の前兆としての、そしてもしかしたら、その後のグローバリゼーションのお膳立てにもなっていったかもしれない、19世紀末から1970年代までの黒人たちの大移動の歴史が、いま書かれ語られることの意味も考えさせてくれるインタビューです。(大竹秀子)
イザベル・ウィルカーソンの新著"The Warmth of Other Suns”(ほかの太陽のぬくもり)は、2010年に誰もが読めるアフリカン・アメリカン史、ひいては米国史の大きな収穫として話題を呼んだ本でした。正味500ページを超える大著ですが、南部から北部へと600万人もの黒人が移動し国のありようを変えた大きな事件を、移動した人、ひとりひとりの物語をまるで映画のシーンのようにきめ細かくまざまざと描くことにより、共同体のソウルフルな叙事詩に変えてくれます。
たまたまいま読み返しているサスキア・サッセンの"Globalization and Its Discontents"の序文で、アッピアがこんなことを言っているのをみつけました。「記録された歴史を通して、男と女は大変な距離を旅してきた・・・交易、帝国、改宗を求めて、奴隷として・・・そうして、遠く離れた場所のものと思想をあわせて、多くの場所の物質的・精神的文化が築かれた」。公民権運動の前兆としての、そしてもしかしたら、その後のグローバリゼーションのお膳立てにもなっていったかもしれない、19世紀末から1970年代までの黒人たちの大移動の歴史が、いま書かれ語られることの意味も考えさせてくれるインタビューです。(大竹秀子)
イザベル・ウィルカーソンはニューヨークタイムズ紙のシカゴ支局長時代、黒人女性として初めてジャーナリスト部門でピュリッツァ賞を受賞しました。調査報道で受賞した初の黒人米国人でもありました。独特な物語風のスタイルで知られるウィルカーソンは社会政策問題に関して広範な著述を行い、ボストン大学はじめいくつかの機関で教鞭をとってきました。ジャーナリズムにとりつかれたのは、ハイスクールの生徒だった時。故郷ワシントンDCのハワード大学に進学したのも、候補として考えていた大学の中でこの大学の新聞がひときわ優れていたからでした。"The Warmth of Other Suns”(ほかの太陽のぬくもり)は、初めての本です。
タビス・スマイリー: イザベル・ウィルカーソンは、ボストン大学のジャーナリズムの教授で、1994年にアフリカ系アメリカ人として初めてピュリッツァ賞ジャーナリストを受賞しました。新著の、"The Warmth of Other Suns: The Epic Story of America's Great Migration”(『ほかの太陽のぬくもり: 米国最大の移動の叙事詩的な物語』)が話題です。イザベル・ウィルカーソンさん、まず、おめでとうございます。番組にお迎えできて光栄です。
イザベル・ウィルカーソン: 声をかけてくださってありがとうございます。
タビス: いいえ、こちらこそ。「超ビッグ」ですね。どのくらいビッグかというと、ニューヨークタイムズ紙のベストセラーになり、ニューヨークタイムズ書評セクションの表紙を飾りました。いま、皆がこの本の話をしています。「いま」という言葉を強調したい。誰もがいまこの本の話をしています。でも、あなたご自身は、この物語―米国のありようのまさにその震源地ともいえる物語―を語るために、長年にわたる規律と勇気と確信と献身を捧げてきた。
この移動がなければいまの米国はなかったでしょう。でもこの物語を書くためにあなたは人生の15年間を費やした。あなたを困らせようと思って言うわけではないんですよ。でも、この米国の物語を語ることの重要性を思えば、これまでこんな風に語られたことがなかったことがむしろ不思議です。この物語にこれまで誰も手をつけなかったのは、なぜだと思いますか?
ウィルカーソン: 理由のひとつは、移動は第1次大戦中に始まり、1970年まで続きました。大変、長期にわたったのです。3世代に及んだ。ですから、ジャーナリストが移動について書こうとしても、初期の移動を追い始めた人は、移動が終わった時にはもういませんでした。進行中に全体像をつかむのは難しかったのです。
もうひとつの理由は移動の波の最中には、人々はもうすぐ終わると思っていたのに、移動は途絶えませんでした。はっきり終わってしまうまで流れがつかみにくかったのです。
最後に、人々が語ろうとしなかったためです。アフリカンアメリカンの家族にとって最大の損失のひとつでしたが。人々はひとたび立ち去ると南部から目をそらしました。振り返らず、多くの場合、子供たちに過去を語りませんでした。口にしたくなかったのです。ジム・クロウの時代に南部で味わったことは、あまりにもつらかったから。
タビス: 600 万人ものアフリカンアメリカ人が移動したんですよね。もっとも僕らはその頃、アフリカンアメリカ人とは呼ばれていなかったけれども。
ウィルカーソン: ええ(笑)。
タビス: カラードとか、ニグロとか。
ウィルカーソン: (笑)その通りです。
タビス: 南部から北部への600万人の移動。南部から北部へのこの移動を背後からつき動かした、一番の動機はなんでしょう?
ウィルカーソン: 一番の動機は1896年から公民権運動が終わるまでの80年間、アフリカ系アメリカ人が、自分たちの一挙一動を指図されるカスト制度の中で暮らしていたことでした。黒人が白人とやりとりするありとあらゆる場面にしみこんだジム・クロウ法にがんじがらめに縛られていたのです。
たとえば、バーミングハムでは、黒人と白人が一緒にチェッカーゲームをすることが禁じられていました。そのような規則が公式に書面にされたのです。黒人と白人が一緒にチェッカーを楽しんでいるのをみた人が、「許せない」と思ったのでしょう。
救急車も黒人用と白人用がありました。タクシーも黒人用と白人用に分かれていました。聖書まで黒人用と白人用があったんですよ。裁判所で宣誓するときのため、黒人の聖書と白人の聖書がありました。
タビス: でも、同じ聖書なんでしょう?
ウィルカーソン: いいえ、別々です。
タビス: 同じ聖書だけれど、ひとつは黒人用、もうひとつは白人用?
ウィルカーソン: ええ、そうです。
タビス: こだわりますけど(笑) 黒人の聖書があったんですか?はっきりしなくて。聖書はひとつなんですよね。それを黒人専用と決めた。
ウィルカーソン: 黒人は、黒人用と決めた聖書しか使えないようにした。
タビス: やっとわかりました。(笑) 600万人のニグロが、南部から来て北部に向かった。
ウィルカーソン: この本で私が本当に把握したかったことは、移動がひとつではなくて、複数の形があり、主に3つの流れがあったということでした。ひとつの移住の流れはフロリダ、ジョージア、南北カロライナ、バージニアから出て、ワシントンDC,フィラデルフィア、ボストン、ニューヨークへと向かうイーストコーストの流れでした。
次に中央の移動の流れです。ミシシッピ、アラバマ、ジョージア西部からシカゴ、デトロイト、クリーブランドへ向かいました。
そして、一番知られていないけれども、書いて楽しかったのは、ルイジアナとテキサスから、カリフォルニアとウェストコーストのいたるところへと向かう流れでした。
タビス: このテーマにこんなにたくさんの時間を割いて精魂傾けようと思ったのは、なぜですか?
ウィルカーソン: 私自身がこの大移動の娘です。いま北部と西部で出会うアフリカ系アメリカ人の過半数は大移動の産物です。大変な人数です。私たちの多くがいま存在するのは、人々が移動したという、この事実のおかげです。
私自身の家族の場合、母はジョージア州のローマからワシントンDCに移住しました。父は、バージニア南部からワシントンDCに移住し、二人はそこで出会い、結婚して私が生まれた。もし大移動がなかったら、私はいなかったでしょう。それなのに物語がその体験を生きた人の視点で語られていませんでした。.
彼らがなぜ出発したのか、どんなきっかけで出発を決意したのか、知らないままでした。出発前の暮らしはどんなだったのか?それまで知っていた、ただひとつの場所を離れてみたこともない場所へ行こうという勇気をどうやって得たのか?多くの場合、寒くて人を寄せ付けない、無表情で無愛想な場所への、不確かな未来に向けての移動です。そして到着した後、どんな暮らしをしたのか?
そんな疑問がわいてきたんです。この疑問はまた、都市がどうやっていまのような形になったのか、こんなのも多くのアフリカ系アメリカ人が、デトロイトやシカゴ、クリーブランド、ロサンゼルス、ニューヨークなどの都市にどのようにして集まることになったか、その答えにもなります。
タビス: ハリケーン・カトリーナの後、毎晩この番組で、また「ミート・ザ・プレス」などに出演してカトリーナについて話す機会を得たときにはいつも、機会があるごとに、文句を言っていたんです。
メディアに文句をつけたんです。ニューオーリンズの黒人男女をさしてメディアが「難民」ということばを使うのが我慢できなかった。れっきとしたアメリカ人です。難民じゃありません。何度でも口をすっぱくしていいました。アメリカの市民です。
はっきりさせるておくのが、大事だと思いました。被害にあった人たちが我々の一員だという事実を見失わないために。私たちの一員なんです。
ウィルカーソン: 私は、本に登場する人々をさして移住者ということばを使っています。ほかの移民の人たち、一等船室で大西洋をわたったかもしれない人たちと同じような移民の心と動機、あこがれと目標と夢をもっていた人たちという意味で。
私が注目しているのは、彼らをかきたてたものが人間味あふれる物語、古典的なアメリカの物語であり、彼らが自分の国で生まれついてもっているはずの自由をみつけるために、こんなにも遠い旅をしなければならなかったという悲劇です。
移住者ということばは、この移動をこれまでとは違う視点から考えてもらえるよう、挑発の意味で使っています。大変多くのほかのグループの人たちが、賞賛を受けてきたことと同じようなことを、大移動の人たちも行いました。まったく何の後ろだてもなく裸一貫で都市にやってきたのです。
そして、限られた地域に押し込められるようにして暮らしました。水も出ない部屋や家に二世帯も三世帯もが同居しました。ひとりでいくつもの仕事をかけもちし、合計すると前から住んでいた人以上のお金を稼ぎました。
つまり、生き残るために骨身を惜しまず働きました。古典的なアメリカの物語、古典的な移民の物語です。しかも彼らはそれを自分の国の中、生まれた国の国境の中で行ったのです。移民としては扱われませんでしたが。
タビス: アイダ・メイさん。
ウィルカーソン: アイダ・メイ。
タビス: アイダ・メイの話を聞かせてください。
ウィルカーソン: 綿つみがひどく下手な小作人(シェアクロッパー)でした。(笑)蛇は殺せましたけど。
タビス: 僕みたいですね(笑)。僕もきっと下手でしょう。
ウィルカーソン: (笑) そうだと思いますよ。アイダ・メイは綿つみが下手でした。蛇は殺せて、夕食のためにニワトリの首をひねることもできましたが、綿つみはできず、綿つみが嫌いでした。アイダ・メイの家族が土地を離れざるをえなくなったのは、親戚というかいとこが犯してもいない罪でとがめられて、もう少しで死にそうなほど殴られたからです。
いとこが盗んだといわれていたものは次の日には出てきたのですが、いとこの身に起きたことを目にしたアイダ・メイの夫は、家に戻ってきて「今日のが私らの最後の収穫だ」といいました。そしてミシシッピを去りシカゴにたどりつきました。ミシシッピからシカゴへの移動組の一例です。
タビス: ロバート・フォスター。
ウィルカーソン: ロバー・フォスターは朝鮮戦争中は腕の良い外科医として一目おかれましたが、退役し、ルイジアナ州モンローの故郷の町に戻ると外科医として仕事できないことがわかりました。それでカリフォルニアに移ると決めたのですが、本人が考えていたよりもはるかに危険な旅でしたが。
タビス: 後に、私たちみんなが知っている人の主治医になりましたね?
ウィルカーソン: 後に著名人の主治医になった。ええ、レイ・チャールズの主治医です。
タビス: (笑)すてきな話です。レイ・チャールズの主治医だなんて。本には、後に残った人たち、移動しなかった人たちのことも語られていますか?
ウィルカーソン: 残った人たちも見方によってはすてきです。彼らが文化を守ったのです。文化の守護者でした。「私たちはここにとどまる。そうすればあなた方に戻ってくる必要ができた時、戻ってくる場所があるから」という人もいて、それまたすてきなことだと思います。
移動はいろいろな点で公民権運動の前兆でした。南部のカスト制度の低賃金の下層労働者が見えてきます。移住は彼らに与えられた選択肢であり、彼らは進んでこの選択肢を選んだのです。立ち去るという選択肢を進んで取ったのです。
この移動が始まった時、アフリカ系アメリカ人全体の9割は南部に住んでいました。9割も。移動が終わる頃には、半数近くが南部以外で暮らしていました。ワシントンDCからボストンまで、クリーブランドとシカゴ、デトロイト、そしてロサンゼルスにいたるまでの弓なりの地域のいたるところに住んでいました。南部以外の場所に。
タビス: あなたが話している時代が、テイラー・ブランチなら「キングの時代の米国」と呼んだかもしれない時代と重なっているのは、頭脳明晰な科学者でなくてもわかりますね。間違いなくマーチン・ルーサー・キングの時代と重なっています。
そんな風には思っていなかったけれども。正義と平等、黒人民衆の権利のために闘かったDr. キングのことを考えるとき、我々はまず、南部の黒人のことを考えますし、もちろんDr. キングの拠点も南部にありました。
でも、いま、あなたの話を聞いていて思ったのですが、キングがこの運動を指導していたまさにその時に、黒人たちはできるだけ早く、南部から抜けだそうとしていた。
ウィルカーソン: まさにその時に。実をいうと彼自身もそうしたのです。キング師はボストン大学にいき、北部の自由を味わいました。1950年代初期のことでした。妻のコレッタ・スコットとも北部で出会いました。そのできごとを考えると- 大移動とのつながりがそこにはありました – 彼は一時期この大移動の一部だったけれども、その後戻って、南部での真実の究極の瞬間のために闘かったともいえると思います。
タビス: あなたがいいたいのは、キング師のようになんらかの目的や理由で、ある時期に南部を逃れた後、南部に呼び戻されたと感じた人たちがいたということですか?
ウィルカーソン: ほどんどの人はそうしませんでした。ほとんどの人は一度移動したら、戻りませんでした。去る時に名前を変えた人もいました。振り返りたくなかったのです。その後、何世代も物語が語られることがなかったのは、そのためです。でも、語られる必要のある物語だと思います。
人々が負った犠牲、そしてこの移動が国に与えた究極の影響について、米国のすべての人々が知る必要があると思います。
タビス: 変わらぬ教訓は?- あなたがこの「物語」をつむぎだしてくれた2010年のいま、この移動から黒人はどんな教訓を得ればよいと思いますか?
ウィルカーソン: 北部でも南部でもアフリカ系アメリカ人のあらゆる家族で、自分たちの歴史を見直すきっかけになってくれればと思います。指導者のいない移動でした。指導者不在の移動でした。自分たちの心の中に抱いているものをよりどころに人々は決心しました。私たちの内部にはとても大きな力があることを物語る、インスピレーションを与えてくれる物語だと思います。
個々の人々が、ひとりひとり、それがすべてあわさって600万人がこの国を変えるのに一役買うことになったのです。人種に関わらず、誰にとっても勇気を与えてくれますが、特に黒人家族に、大きな勇気の源になると思います。
後ろを振りかえり、家族の中で一番年をとった人と話し、手遅れにならないうちに、彼らの話を発見してほしい。この本を書くために、急がなければと感じました。人々はどんどん亡くなっていきますし、彼らの話を聞く時間はそんなにたくさん残っていないと感じたのです。それが私の教訓です。
タビス: イザベル・ウィルカーソンさんは、1994年にピュリッツァ賞を受賞して歴史を作りました。いままた、皆が話題にする本を出したところです。タイトルは、"The Warmth of Other Suns: The Epic Story of America's Great Migration(『ほかの太陽のぬくもり: 米国最大の移動の叙事詩的な物語』)"です。米国に住む、私たち全員への贈り物です。著者は、ピュリッツァ賞受賞者イザベル・ウィルカーソンです。イザベル、本をありがとう。番組に出ていただいて光栄です。
ウィルカーソン: 声をかけてくださって、ありがとうございます。
タビス: どういたしまして。今日は、この辺で。
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