[続き]
質問15
マサイア: 資金はどうしたのですか?サバイバルプログラムを実施する資金をどうやって得たのですか?
ブラウン: 行き当たりばったりでしたね。お金は得ていましたけど、きちんとした資金源なんてありませんでした。 政府のお金をもらっていたわけじゃありませんから。最終的には、ある時点で受け取りましたけれど。でも、初期には、政府のお金を受け取るなんていう気はさらさらありませんでしたから。私たちがやっていたのは、基本的にせびったり、借りたり、盗んだり、でした。そうやってお金を手に入れました。できることはなんでもやりました。
マサイア: わかりました。
ブラウン: 併せて、「寄付」も受け取りました。貧困プログラムで人が「寄付」と呼ぶようなものをもらっていました。食料品の寄付を受けましたし、サービスの寄付も受けました。ある意味で、教会は場所を寄付し、キッチンの使用を提供したわけだし、私たちは皿洗いをし、人々は朝食の調理をボランティアするなどしてサービスを寄付してくれました。そんな風にいきあたりばったりやってました。それでなんとかやってました。地域社会を取り込んでいく取り組みでした。でも、まあおおまかにいえば、せびって、借りて、盗んでいたといえますね。
質問16
マサイア: パンサーの反戦運動 への参入について、ベトナム戦争反対の立場をとるようになったいきさつを語ってください。白人の急進派グループと共闘しましたね。どうやって実現したのですか?覚えているエピソードが何かありますか?
ブラウン: ブラックパンサー党は、民族主義組織ではありませんでした。私たちの目的は黒人国家の建設ではありませんでした。私たちは、ブラックピープルの抑圧は私たちの第一の関心だけれども、どちらかといえば主観的な関心だと感じていました。そしてその関心は、自由によってあがなわれる、すべての人々のために抑圧を破壊することにより、あがなわれるのだと思っていました。ですから、そこには、ほかの人種の人たちや女性、公民権を剥奪され、制度によって抑圧されているあらゆる人々がふくまれると考えていました。本当の加害者は、このような人々すべてに浸透し、害をもたらす、病んだ制度。米国の資本主義制度、ひいては帝国主義であると考えていました。ですから私たちは早い時期から、ベトナムでの戦争の目的は、ブラックピープルとは何の関係もないものであり、私たちは使い捨ての兵士以外の何ものでもないことに気づいていました。私たちの最初の立場は、戦争反対の立場を取るというのではなく、ただ黒人の男たちに戦争にいかないよう勧めることでした。そんな姿勢を広めていました。初期の文書をみれば、私たちが黒人の男たちに、「戦争に行くな」と言っていたのが、わかります。私たちは、パンサーのメンバーを徴兵されままにしておくつもりはありませんでした。パンサーの制服を着せパンサーの文書を手に徴兵委員会に送りこみ、入隊の準備はできてますと言うように勧めました。すると徴兵委員会は(びびって)彼らをベトナムに送ることなく、どうぞお引取りくださいといいました。このように、私たちの努力はブラックピープルが戦争に参加しないよう勧めることでした。私たちは使い捨ての兵士ではないし、ベトナムの人民私たちの敵ではなかったからです。黒人団体の中で、戦争に疑問を呈した団体は本当に少なかったけれど、私たちはそのひとつでした。でも、私たちは、ただベトナムに平和をもたらすべきだと主張するタイプの反戦活動家ではありませんでした。私たちの立場は次第に明快で強固なものになっていきましたが、それはベトナム民衆の勝利、ベトコンの勝利への支持でした。これは、米国で人気のある立場ではありませんでした。それにも関わらず、私たちは数多くの反戦運動やデモに参加しました。でも私たちの路線は大変堅固で、ベトナム民衆の勝利であり、それはベトナムでの米軍部隊の破滅を意味していました。
質問17
マサイア: 白人の急進派組織と共闘した時代、イベントについて話してください。
ブラウン: 白人急進派組織との連携という考えを支援した中心人物は、もちろんエルドリッジ・クリーバーでした。「マザーカントリー・ラディカルズ」[注16]という言葉も彼が作りました。いずれにしろ私たちの考えにぴったりあっていました。なぜなら、パンサー党は民族主義団体ではありませんでしたから。私たちにはいろいろな闘争との連携の可能性が見えていました。白人急進派団体の多くでは、もちろん、メンバーはわたしたちよりもミドルクラス、時にはアッパークラスの人たちで、こういう言い方が許されるなら、白人の団体でしたが、それにも関わらず、心から真剣に取り組んでおり、当時、私たちの闘いを支援していました。私たちが組んだ白人団体には2種類ありました。「平和と自由」[注17]タイプの団体で、日常的に協働した団体です。もうひとつのタイプはサポートグループでした。あと、パンサーにもいろんなグループがありました。ホワイトパンサーは、白人の支援グループで、ブラックパンサー党を支援する白人たちの団体でした。資金面だけでなく政治的にも自分たちのコミュニティで活動していました。白人コミュニティ内部で活動したり、ブラックコミュニティで我々が行う活動を支援しました。特定の問題で提携することもありました。たとえば、ファシズムに対する連合戦線を作りましたが、その時には「平和と自由」が共催者になりました。私たちは、ブラックピープルの抑圧は、民族主義やレイシズムの問題ではなく、資本主義と直接的につながっているという立場から、共闘しました。
質問18
マサイア: SNCC[注18]との連携、特にストークリー・カーマイケル[注19] とラップ・ブラウン[注20]があなた方に及ぼしたと思われる影響、そしてあなた方が彼に、つまりブラックパンサー党がSNCCに及ぼしたと思われる影響について語ってください。
ブラウン: ブラックパンサー党は、もちろん、自分達が闘争の最前線だとみていました。SNCC は、主として投票権と南部での活動に献身する公民権団体でした。ストークリーはもちろん、白人には出る幕がないという立場で、はっきりと民族主義の姿勢を取っていました。でもブラックパンサー党は自分たちは革命の前衛だと見ていました。だから、もし政治的なものさしを使うなら、私たちは、SNCC よりも左寄りでした。私たちは心底、自分たちは前衛だと考えていました。私の記憶では、私たちがカーマイケルをリクルートしたのです。彼には人気があったし、基本的には同じ主張をしていましたから。彼はSNCCのリーダーとして、私たちとは違う視点の持ち主ではありましたが。彼にはアフリカとのつながりもありましたから。彼には国際的で民族主義的なイメージがありました。だから、ブラックパンサー党に参加しないか、アフリカに行くときにパンサー党の大使のような役割を果たせないかと聞いてみたのです。そして、もちろんラップ・ブラウンやその他の人たちもその話の一部でした。当時、特に1968年には、フリー・ヒューイ運動がとても盛んでとてもビッグになっていましたから、誰でもパンサーに便乗したがっていました。ですから、連携関係を築くのは難しいことではありませんでした。そして、それは単なる連携以上のもので、米国のさまざまなブラックのいわゆる「軍事力」の統合と融合を意味しました。[カット。シーン5、テイク9]]
質問19
テリー・ロックフェラー: フレッド・ハンプトン[注21]からどんな影響を受けましたか?シカゴでのパンサーの強さと成長を、どのようにみていますか?
ブラウン: フレッド・ハンプトンがシカゴを拠点にしたイリノイ州支部の真髄だったことは間違いありません。フレッド・ハンプトンは党員になったころ、生前の彼はたしか、20歳か21歳か、そこらでした。フレッドに初めてあったのは、誰かの葬儀のすぐ後でした。南カリフォルニアでは葬式がたくさん出されましたが、そんな葬儀のひとつで、私はデビッド・ヒリアード[注22]と一緒に会いにいきました。私たちは、フレッドを批判し行った、というか、私はフレッドを批判する気はなかったのですが、デビッド・ヒリアードはそのつもりでした。フレッドが、ウェザーアンダーグラウンド[注23]、あるいは当時はウェザーマン とも呼ばれていましたけれど、フレッドが彼らを糾弾したからです。サウス・シカゴのブラックコミュニティを破壊していると非難していました。フレッドの方針は確固としたもので、ウェザーメンはコミュニティの一員ではないと言っていました。ウェザーマンのおかげで警察が踏み込んできた。ブラックパンサー党がそのために責められている。ウェザーマンはふたつのことをしでかした。直接的にも間接的にもコミュニティに影響を及ぼした。コミュニティがブラックパンサー党に対して築いてきた関係に悪影響を及ぼしたといって怒り狂っていました。それで、私たちはフレッドに会いにいきました。フレッドは、基本的にはまだガキッチョでした。よく考えればそうなんです。その夜、私が初めて会った日、私たちは夜遅く着きました。フレッドは大きなベッドをもっていて、フレッドと彼の妻のデボラは、このベッドを手に入れたばかりで、皆がこのベッドのことで大騒ぎしていました。フレッドはどっちかというと太めだったし、デボラはお腹に彼の子がいて太めだったので。このベッドのことで皆が大騒ぎでした。だってフレッド・ハンプトンはどのみち、眠ったりしませんでしたから。
質問20
マサイア: シカゴのパンサーの成長について。
ブラウン: フレッドは、私が出会った中でもっともダイナミックな人物の一人だったと思います。初めて会ったのはシカゴで、デイビッド・ヒリアードが別のパンサーの埋葬の場の帰りに直接、私を連れていきました。私たちは葬儀に出席したのです。その後、シカゴに飛び、すぐにフレッドに会いました。フレッドとの初対面で覚えていることは、彼がほかの皆と一緒にアジトとしていた家に詰めていたことです。彼の家はウェストサイドにあり、住むにはひどい場所でした。でも羽振りの良さそうな暮らしはせず、党のほかの仲間たちと同じように暮らしていました。かなり貧しい暮らしでしたが、たどひとつユニークだったのは、彼とデボラがもっていた大きなベッドで、ほかの皆は面白がって笑っていました。フレッドについてもうひとつ覚えているのは、滞在中に、私たちは朝、彼と共に起きました。私たちが到着したのは朝の2時頃でしたが、フレッドは夜通し起きていて、いつもそうしているようでした。朝の6時ころに私たちはでかけ、校庭かなんかにそってドライブしたのですが、そこでは200人か300人がフレッドが現われるのを待っていました。この話ですごいのは、集まっていた人たちのすべてがストリート・キッズだったことです。ふつうなら、早起きして仕事にいったりするとは思えない連中が勢ぞろいしていたのです。規律なんてことばもしらなそうな人たちが、集まっていました。朝の6時か6時半、凍てつくようなシカゴで。フレッドは彼らに腕立て伏せやジャンピングジャックをやらせ、その日の仕事に向けて、活をいれていました。その中には、ブレクファストプログラムもあれば、パンサー新聞の販売や医療クリニックでの仕事など、いろいろなことが含まれていました。それがブラックパンサー党の日課でした。フレッドは彼らをたばねていました。彼は皆に向かい、「パワー・トゥ・ザ・ピープル(民衆にパワーを)」と言い、皆は「民衆にパワーを」と応えました。「飛行機事故で死んだりしないぞ」と彼がいうと人々は、「死ぬもんか」と叫びました。「氷の上ですべって死んだりしないぞ」というとみなは、「死ぬもんか」と応えました。「俺は民衆のために死ぬ。なぜなら俺は民衆のために生きているから」というと、みなは、「異議なし」、彼が「俺は民衆のために生きる。なぜなら民衆を愛するから」というとみなは、「異議なし」と叫びました。彼が、「俺は民衆を愛する。それはなぜか?」というとみなは「なぜなら民衆は俺たちをハイにするから」と応えました。これがフレッド・ハンプトンでした。21歳かそこらだったのに。信じられないパワーでした。フレッド・ハンプトンに心を動かされずにいることは不可能でした。彼はマーティン・ルーサー・キングのようでした。、ほかのことでは絶対に動くことなどなさそうな連中をフレッド・ハンプトンが動かすのを目にすれば、誰だって感動したでしょう。大きな図体をした屈強な男たちが、早起きし、朝食を調理し、腕立て伏せをし、自分は民衆のために死ぬと口にしていたんです。それが、フレッド・ハンプトンでした。そんな精神を私は彼の中にみました。暗殺されるわずか2ヶ月前のことでした。
質問21
マサイア: フレッド・ハンプトンの死をどのようにして知りましたか?どう感じましたか?
ブラウン: 私はボビー・シール[注24]とエリカ・ハギンスのために彼らを釈放させるためにニューヘイブンで活動していました。当時、彼らは起訴されてニューヘイブンの刑務所にいたんです。私はバスタブの中にいました。これは言うべきことではないかもしれないけれど、当時、私は妊娠していたんです。フレッドのことを聞きました。フレッドの死の知らせを聞きましたが、信じられませんでした。まったく信じられなかった。私たちはどうなっていくのだろうと思いました。誰にも先がみえなかったたと思います。J・エドガー・フーバー[注25]が我々を殺すと言った年のできごとだったので、フレッドが殺されたとき、私たち皆は、これが今年のしめくくりかと思いました。その年には、本当に多くの人々が暗殺されました。大勢が死にたくさんの葬儀があり、私たちは、FBIが彼らのやり方でその年を締めくくろうとしているのだと思いました。彼らはフレッドの家に踏み込んで、彼を殺したのです。私たちには、事態がよくわかりました。疑問の余地はありませんでした。フレッド・ハンプトンは政治的なオーガナイザーでした。フレッド・ハンプトンはほかの人に脅威を与えるような人物ではありませんでした。彼らは、フレッドが群衆から離れて一人でいる場所にいき、彼を殺しました。私たちは、私たち全員が危険にさらされていると感じました。私たちは皆、フレッドの死によってずたずたにされました。
質問22
マサイア: 葬儀はどんな風でしたか? 描写してください。
ブラウン: それについては何度も話し、考えてきました。 私がシカゴについたのは、フレッドが殺されてから4日後でした。彼のベッドを触ることができ、指はまだ彼の血のしめりけを感じることができました。デボラがいました。私たち、デボラと私は事件について言葉を交わしました。私たちは2人とも妊娠していました。デボラはベッドの中にいて、フレッドはそのベッドで息絶えました。デボラは血まみれになりました。フレッドはデボラの上に倒れたのです。そのようすすべてをその場で目にすることができました—シカゴの街では、数限りないブラック・ピープルが、家にやってきて〔注26〕通りにあふれていました。フレッドがいなくなったいま、私たちがどうするのか、皆が知りたがっていました。ブラックパンサーが据え付けた拡声器を載せたトラックが通りを走り、フレッドの演説を流していました。通りでフレッドの声を聞き、彼に組織されていた人たちはあたりをはばからず、泣き叫びました。そして葬儀の時が来ると、何千人もの人たちが集まり、演説に耳を傾けました。フレッドを賞賛するスピーチに耳を傾け、多くの人たちはフレッドの直接の知り合いではありませんでしたが、皆、その場に立ち会いたいと思いました。フレッド・ハンプトンの葬儀でしたから。そして最後に、これは私がこれまで何度となく言ってきたことですが、この上なく心を打つ出来事がおこりました。 赤いベレーと黒いジャケットで正装したピー・ストーン・ネイション[注27]の少なくとも2000人のメンバーが整列して、フレッドの棺に敬意を表し、「ネイションへ、フレッド」といいました。目を離せませんでした。この人たちは社会から完全に疎外された人たちですが、フレッドは、彼らにとってそんなにも大きな存在だったのです。心から感動しました。
質問23
マサイア: 歌は、Someday We'll All Be Together(いつの日か、私たちは皆ひとつ)?なぜ、その歌だったのですか?
ブラウン:フレッドが好きな曲でした。手短に説明すると、モータウンは、都市のサウンド、都市の反逆、都市のブラックの反逆のサウンドでした。ワッツやデトロイトのサウンドでした。立ち上がり、都市を舞台に自らの人生の主導権を握ろうとするブラックピープルのサウンドでした。ダイアナ・ロスとスプリームズは、”Someday We'll All Be Together(いつの日か私たちは皆ひとつに)”でそれを歌にしました。フレッドはあの曲が好きでした。もちろん、歌には二重の意味がありました。フレッドにとっては、政治的な意味があったのです。私たちは特にモータウンの歌を取り上げ、それを政治的な意味に訳し変えていました。だから、フレッドはあの曲が大好きで、フレッドが暗殺された後も、シカゴの通りのいたることころで、フレッドの「俺は人民のために死ぬだろう。なぜって人民を愛しているから」という演説の声にかぶさって、ダイアナ・ロスが歌う "Someday we'll be together"が流れていたものです。ブラザーが、"Say it, say it, say it again(もう一度、もう一度言ってほしい"という歌詞を口にしていました。皆が理解していました。私たちはひとつになるだろう。そして、それを実現させたのはフレッドなんだと。フレッドはある意味で私たちを、それまで以上にひとつにしました。彼らが彼を暗殺するなんていう間違いをおかしたために。少なくとも、当時、私たちはそんな風に感じていました。
質問24
マサイア: その年、1969年の始まりはどんな風でしたか?死の存在、そして敵の存在を知り、ブラックパンサーの人たちはどのように成長し、その年をいきぬきましたか?
ブラウン: その年は、ロサンゼルスでのジョン・ハギンスとバンチー・カーターの暗殺で始まりました。そして、私は毎月、葬式に出ていました。私はお葬式で歌うプロのシンガーになりました[注28]。本当にそんな状態でした。皆が葬式に通い、そのことについて冗談を言ったりもしていました。でもまた、年の初めにフーバーが、今年はブラックパンサーの息の根をとめる、最後の年にすると宣言したんです。本当にそう宣言したんです。私たちには、彼が本気だとわかりました。私たちはそれに直面せざるをえないことがわかりました。私たちは真剣でした。私たちには、執行指令書第1号を呼ぶものがあり、パンサーは銃を手放してはいけないと規定されていました。[ 中断。カット]
質問25
マサイア: フーバーの発表とパンサーの死の話を続けてください。
ブラウン: 1969年は、ブラックパンサー党全員にとって、大変、つらい年でした。フーバーは、ブラックパンサーはまぎれもなく「米国の国内の安全保障にとってただひとつ、かつ最大の脅威である」と発表しました。今年はブラックパンサー党にとって存続最後の年になるだろう、と。私たちはそのことばを真剣に受け止めましたが、なんとかきりぬけられるだろうと考えていました。党内には、ヒューイが発令した執行指令書第1号と呼ばれる規則があり、何はさておき、パンサーたちはつねに武装していなければならないと述べていました。ですから、もし私たちが、街頭や家で警察に捕まるようなことがあれば、その場所で自衛することを期待されていたのです。私たちはそのことを知っていましたし、まじめに受け止めていました。そのような行動、フーバー側の姿勢、私たちの自己防衛と自らを守る能力および意思などすべてがあいまって、私たちは大勢の仲間を失いました。1969年には、毎月、1度はお葬式に行っていました。もっと多かったかもしれない。ロサンゼルスだけでも、そうでしたから。のっぴきならない状態でした。でも私たちは、自衛を心から信じていました。そして大勢がそれを実行しました。年の終わりまでに、大勢が命を落としました。ロサンゼルスの特別機動隊によるロサンゼルス事務所の急襲が、パンサーへの手入れの始まりで、その時には5時間半をかけて戦車を使った軍隊なみの武装で、ライフルなどを手に事務所を攻撃しました。本気なのはわかっていました。本気で襲撃を受けており、私たちは皆、死ぬんだと思いました。そんな風だったのです。やるべきことは、はっきりしていました。前衛でありたければ、その代価を支払わなければならなかったのです。実は、フレッドがいつも言っていました。ボスでありたいと思ったら、そのツケを払わないにはいかないと。フレッドの口癖でした。そして、私たちには、わかっていました。そのことを学び、甘受しました。やるべきことをやったのです。
脚注 続き
16)
「マザーカントリー・ラディカルズ」は、エルドリッジ・クリーバーが著書「氷の上の魂」で使ったことばで、パンサーの方針にとりこまれた。黒人が植民地状態に置かれたマザーランド(母国)で、マザーランドの急進派は、植民地状態にある黒人の闘いの連帯とパワー、思想を尊重したうえで、支援を行い闘いに連携できるとし共闘の可能性を認め、拝外主義的な民族主義とは一線を画した。
17)
「平和と自由」党は1967年に結成。社会主義、民主主義、エコロジー、フェミニズム、急進的な平等を擁護し、資本主義社会内にいて資本をもたない労働者階級を代表するとする。
18)
SNCC (スニック:学生非暴力調整委員会)は、1960年、それまでのいずれに黒人解放団体にも属さない独立組織として結成された黒人学生を主体とした米国の公民権運動組織。公民権運動で主導的な役割を果たした後、1969年に非暴力主義路線を放棄し、学生全米調整委員会(Student National Coordinating Committee)に改称。「ブラックパワー」運動を中心課題とし、ベトナム反戦にも力を入れたが、70年代前半には組織が分裂して解散した。
19)
ストークリー・カーマイケル(1941‐1998)は、トリニダード島ポートオブスペインで生まれ、1952年にニューヨークに移住していた両親のもとにひきとられた。1960年代にSNCCの活動に加わり、アラバマ州ラウンデス郡での投票権運動にも参加した。1966年にSNCCに第3代目議長になり、ブラック・パワーを提唱した。一時期、ブラックパンサー党の主席になったが思想の不一致で離党した。1969年にギニアに移住し、1998年に当地で逝去した。
20)
ラップ・ブラウン(後にイスラム教に改宗し、ジャミル・アブドゥラ・アル=アミンに改名)は、SNCC最後の議長。後にSNCCとブラック・パンサー党が一時期、合併していた時には、ブラック・パンサー党の国防省長官を担当した。2000年に起きた警官殺人事件で終身刑を宣告された。
21)
フレッド・ハンプトン(1948 ‐ 1969)は、ブラックパンサー党のイリノイ支部の副議長としてカリスマ的な指導力を発揮した。深夜遅くベッドで寝ているときにシカゴ警察とFBIの襲撃を受け、射殺された。
22)
デビッド・ヒリアードは、ブラックパンサー党のメンバーで、幕僚長を任じた。現在は、ニューメキシコ大学の客員教授。
23)
ウェザー・アンダーグラウンド(別称ウェザーマン)は、1969年に結成された米国の左派急進派組織。米国政府を暴力的に打倒する秘密の革命党をめざし、1970年代にはマリファナ7所持で投獄されていたティモシー・・リアリーの脱獄支援など、爆破テロを行った。メンバーは裕福な家庭出身の学生が中心だった。
24)
ボビー・シールはヒューイ・P・ニュートン共に1966年にブラックパンサー党を創設した。1969年5月、ブラックパンサー党のニューヘイブン支部でFBIのスパイとみられた人物をパンサー党員が殺害する事件が起き、当時、講演のため当地を訪れていたボビー・シールの事件への関与も取りざたされ、1970年裁判にかけられた。
25)
ジョン・エドガー・フーバーは、1924年から1972年に死亡するまで、アメリカ連邦捜査局(FBI)の長官。FBIの権威を高めたが、有名人に対する諜報活動や恐喝、また政治的迫害を行なうなど、巨大すぎる権力行使は、大きな非難も受けた。フーバーは1968年9月に、ブラックパンサーを「米国の国内の安全保障にとって最大の脅威」であると呼び、共産主義の活動家に対して開発対諜プログラム「コインテルプロ」を駆使して、パンサーの指導層を破壊するために、監視、スパイの侵入、偽証、警察によるいやがらし、暗殺などを行った。また党のメンバーを逮捕するなどして、組織の物的および人的資源の枯渇をはかった。
26)
フレッド・ハンプトンが寝ていた家に急襲をかけて彼を殺害した警察は、当初、部屋の中にいたブラックパンサーのメンバーが警察隊に向かって発砲し、銃撃戦になったと発表していたが、部屋に残された銃痕は、発砲が一方的に警官隊から室内に向けられたことを示していた。ブラックパンサー党のメンバーとその弁護士たちは、そのことを明らかにするため、殺害現場となった家を市民に一般公開した。
27)
「ブラック・ピーストーン・ネイション」は、元々は「ブラックストーン・レンジャーズ」と呼ばれ、1960年代にシカゴでもっとも名をなしたギャング。メンバーは、主に12歳から15歳だった。
28)
1968年、エレイン・ブラウンは当時、ブラックパンサー党の議長だったデビッド・ヒリアードから歌をレコーディングするよう委託され、アルバム"Seize the Time"が生まれた。1973年にもヒューイ・P・ニュートンの委託でレコーディングを行い、アルバム"Until We're Free"が作成された。
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