エレイン・ブラウンは、元ブラック・パンサー党のメンバー。一時は、議長も務めました。著述家でシンガーでもあり、長年にわたり、「刑務所での権利を尊重する連合(Concerned Coalition to Respect Prisoners’ Rights)」などの団体を創設し、囚人や刑務所での権利を擁護する活動に力を入れています。ウェブサイトでみつけたこのインタビューは、PBSのドキュメンタリー番組「アイズ・オン・ザ・プライズⅡ」のために実施されたものを無編集のまま、アーカイブス用に書き起こしたものとみられます。撮り直しが行われたらしく、質問や回答に若干のダブりがみられるところもありますが、エレイン・ブラウンの「正直」な発言が聞かれ、ブラックパンサーの大変、貴重な記録です。(翻訳:大竹秀子)
編集者注:インタビュー実施者:Blackside, Inc。実施日:1988年10月14日。ワシントン大学図書館、フィルムとメディア・アーカイブ、ヘンリー・ハンプトン・コレクション。書き起こしには最終プログラムに登場しない素材も含まれます。
質問1
ルイス・マサイア: 組織の中にいたあなたの目からみて、ブラックパンサーは、どんな人たちだったのですか?以前あなたは、ブラックパンサーはいろいろな階級の結びつき、ストリートキッズもいれば、高学歴の人もいたと言いましたね。その辺のことを話してください。
エレイン・ブラウン: いろいろな人たちがいましたが、階級の結びつきと呼べるかどうか。なぜかというと私たちの分析によれば、たとえば、黒人(ブラックピープル)はブルジョワ層にはいりませんから。ブルジョワ階級を私たちが代表するとはいえなかった。でも、ブラックパンサー党には幅広い層の人たちがまじりあっていたのは確かです。私たちは全員が皆、ユニークでした。ひとりひとりが、個性的だったと思います。出身地もばらばらでした。たとえば、ジョン・ハギンズ[注1]はニューヘイブンの出身で、ミドルクラスの出と言えた。かと思うと、バンチー・カーター[注2]は、ロサンゼルスのストリートキッズでした。ほかの人たちはその間のどこかにばらばらと位置していました。私たちは、いまではアンダークラス(底辺層)とよばれるようになった人たち、私たちがルンペン・プロレタリアートと呼んだ人たち、ストリートキッズ、最貧困の労働者階級の人たちを一番引きつけたといえると思います。
エレイン・ブラウン: いろいろな人たちがいましたが、階級の結びつきと呼べるかどうか。なぜかというと私たちの分析によれば、たとえば、黒人(ブラックピープル)はブルジョワ層にはいりませんから。ブルジョワ階級を私たちが代表するとはいえなかった。でも、ブラックパンサー党には幅広い層の人たちがまじりあっていたのは確かです。私たちは全員が皆、ユニークでした。ひとりひとりが、個性的だったと思います。出身地もばらばらでした。たとえば、ジョン・ハギンズ[注1]はニューヘイブンの出身で、ミドルクラスの出と言えた。かと思うと、バンチー・カーター[注2]は、ロサンゼルスのストリートキッズでした。ほかの人たちはその間のどこかにばらばらと位置していました。私たちは、いまではアンダークラス(底辺層)とよばれるようになった人たち、私たちがルンペン・プロレタリアートと呼んだ人たち、ストリートキッズ、最貧困の労働者階級の人たちを一番引きつけたといえると思います。
質問2
マサイア: あなたをブラックパンサー党に引きつけたのは何でしたか?参加した原因は?
ブラウン: 一言では語りつくせない質問です。何かひとつ、これということはできません。でも私の場合、もっとも大きな影響を与えたことはひとつ、いえ、ふたつありました。ひとつは、南カリフォルニアでバンチー・カーターに出会ったことでした。カーターは「ゲットーの市長」を自認していました。私はいつでも彼をアーティストで詩人だと呼んでいました。「スローソン」というギャングのボスで、ストリートキッズで、すばらしい人でした。バンチー・カーターのそばにいたら、誰であれ、何でもいいから彼がやっていることに加わらずにはいられなくなる、そんな人だったと思います。ほら、その当時は本当にエキサイティングな時代だったから、皆、何かしたくてしかたなかった。私は、すでに「ブラック・コングレス」という名の団体に参加していました。その「運動」の周辺で使い走りのような仕事はしていました。でもバンチーにあった時、ブラックパンサー党にはいらなくてはと思いました。それで党の仕事を少し始めましたが、正式に人生をかけてブラックパンサー党に取り組もうと思ったのは、エルドリッジ・クリーバー[注3]に出会ってから、そしてクリーバーが撃たれ、ボビー・ハットン[注4]が射殺された後でした。
質問3
マサイア: (パンサーの)思想について少し話していただけますか ?[翻訳者注:この質問に対する答えは、原文に記載されていません]
質問4
マサイア: ブラックパンサーの党員であることは、何を意味しましたか?ブラックパンサーとは何でしたか?
ブラウン: 私、個人にとって―という意味ですよね、質問の趣旨は?―何を意味したかというと、自分の人生を賭けるということでした。皆、そんな風に考えていたと思います。自分の一部、人生を捧げなければなりませんでした。自分たちが関わっている闘争は社会革命の一環だと信じていましたから。一生を捧げるべきものだと。そのためにすべてを投げ出さなければならなかった。献身が求められたのです。マジに死ぬと思っていたか?私たちの大半はある時期以後、そう考えるようになったと思います。でもそれは、自分の命をより大きな何かのために投げ出すことでした。抑圧を排除し、この国でブラックピープルにとって、そしてその他の民衆にとって抑圧をなすあらゆるものを排除するという思想に命を賭けることでした。それは自分ひとりのことではなく、ひとりの人間として何をやるか、何のために自分は存在しているのかということを問うことで、自分を全体の一部とみなし、プロセスの一環としてみる、軍の一兵士と考えることを意味しました。私たちは自分を軍の一兵士とみており、軍は革命をもたらす前衛軍であり、自分たちは米国に社会革命をもたらすのだと考えていました。
質問5
マサイア: 以前、ヒューイはいろいろな人たちから借りて、パンサーを、パンサーの政策を、そしてパンサーのスタイルを作り上げていったとおっしゃってましたよね。その点を説明してください。ヒューイ・ニュートン[注5]はどんな影響を受けたのか。ヒューイ・P・ニュートン自身についても話してください。
ブラウン: 私にわかっている影響のひとつは―もちろん、パンサーのユニフォームへの影響はすぐわかるでしょう?―チェ・ゲバラ、南米とキューバのゲリラ活動一般からヒントを得たものでした。ブラックパンサーというグループ名はミシシッピのラウンデス郡の自由団体から借用しました。投票権を推進する組織で、私たちのシンボルの豹(パンサー)を使っていました。当時、ブラック・ピープルは、あれこれなんくせをつけて投票権を拒否されていました。読み書き能力テストを求められても困らないよう、投票所でブラックパンサーのシンボルを探せ、そうすればどの候補者に投票すればいいかわかると説いていました。私たちは彼らのブランクパンサー(黒豹)のシンボルを借りた[注6]のです。私たちはネイション・オブ・イスラム[注7]の十項目綱領とプログラムを借りて、自分たちの十項目綱領[注8]プログラムを作りました。でも、私たちとほかの組織との際立った違いは、ヒューイが強く推進していた武装でした。言い換えれば、チェ・ゲバラは別として米国でブラックパンサー党とほかの人たちとのきわだたせた違いは、私たちが闘争には武装暴力と武装勢力が必要だと信じていたことでした。私たちにはその心構えができていて、それを実現するために武装していました。それは皆に一貫していました。でも、それがすべてだとみるのは間違いで、プロセスの一局面とみるべきです。そのような時代でした。こういったことはシンボリックなことであり、それだけが大事な問題だったわけではありませんでした。多くの場合において、大切なのは思想でした。特に党が結成された頃には。ヒューイがどんな人だったかというと、ヒューイについて考えるとき、真っ先に頭に浮かぶことは、天才だったということです。頭脳明晰な理論家で、勝利のために取り組まなければならないコンセプトをしっかり理解していました。端的に言って、ヒューイ・ニュートンはブラックパンサー党を支えた指導者でした。武装について、社会主義革命について語り、道を示すことができました。そしてもちろん、行動でそれを示しました。サクラメントに行き、というか、ヒューイが自分で出向いたわけではありませんでしたが、ベティ・シャバーズの警護[注9]をしたりしました。人々の注目を集め、最終的にはもちろん、1967年にオークランドで警官との銃撃戦の巻きぞえをくって「フリー・ヒューイ(ヒューイ釈放)」運動[注10]の焦点になりました。ヒューイは形式上だけでなく、実質的にもブラックパンサー党の真の精神、ブラックパンサー党を独特なものにしたドラマ、ダイナミズムを生きることになったと思います。
質問6
マサイア: 昨晩、キリストの最後の誘惑の話が出ましたね。死の直前のキリストが体験したあの瞬間です。 パンサーの党員のひとりとして、いつ死ぬかもしれないと悟ったときのことについて、話していたときでしたが。自分の命が危険にさらされているとわかったときのことを覚えていますか?それはあなたをどう変えましたか?死ぬかもしれないと思ったったのはいつのことでしたか?
ブラウン: 過去のことをあんまりほじくりまわりたくありませんが、1969年にUCLAでジョンとバンチーが殺されたとき、きっとタイミングが40秒か50秒違っていたら、私も撃たれていただろうと思います。でも、そのことで大きな影響を受けたというわけではありません。ただ、事実としてそうだったというだけで、感情的に尾を引いたとは思いません。銃撃があったという事件事態はすっかり覚えていますが、その瞬間の記憶はぼやけています。でもその日の午後に、彼らが殺された後で、私たちはエリカ・ハギンスがいた家にいって話をし、グループを招集し、これからどうしたらいいか、話しあいました。2人、殺されましたから。組織の建て直しを始めながら、この家を離れなくてはと感じていました。でも、窓から外を見ると、警官が150人くらい集まっていて、家の中に押し入ろうとしていました。屋根からはいってこようとしていました。そのとき、家の中にいたのは、女性4人だけ。エリカとジョーンとジャニス、それに私、そしてエリカの赤ちゃん、エリカとジョンの生後3ヶ月の赤ちゃんでした。家の外には男性が2人いましたが、多勢に無勢でした。ドアからはいってきて、私たちは殺されるんだと話し合いました。家から出てこなければ殺してやると警官は、言っていました。頭をぶっ飛ばしてやると。警察はジェロニモ・プラット[注11]とナサニエル・クラークの耳元にショットガンをつきつけていました。私たちは床に伏せました。 もうこれまで、今日、私たちは死ぬのね、私たちは言いあいました。最初に思ったことは、なんとかやりぬきたいという希望でした。この苦痛に耐えることができればと願いました。私の身に何が起きようと、なんとかやりぬければと願いました。不思議な気持ちでした。自分があんなにも勇敢で平静でいられるなんて。考えたこともありませんでした。本当に思いもよりませんでした。泣き喚いたりすると思っていましたから。警官はドアを蹴り破り、私たちの頭にショットガンをつきつけました。でももちろん、私は殺されず、いまここにこうしています。でもそのときは―。とても身近にいて親しくしていたジョン・ハギンスは殺された。私にできることは何もない。これっきゃない、これが私の人生。そういうこと。やってやろうじゃない。1969年1月17日は、私にとって決定的な時でした。私はいま、命を落とす、でもその価値はあると思った決定的な瞬間でした。
質問7
マサイア: パンサー党は人々をどのように変えましたか?ロサンゼルスのスローソンズ・ギャングを、オークランドで、全国で、黒人男性そして女性をどのように変えましたか?
ブラウン: まず最初に、パンサー党は男社会でした。女性について、あまり多くは語れません。党には女性はたくさんいませんでしたから。女性がいなかったわけではありませんが、大勢いるとはいえない状態でした。党を仕切っているのは男性でした。その姿勢やあらゆる点で男支配の組織で、民兵組織にも似た雰囲気でした。はっきりいえることは、ブラックパンサーはギャングの連中に、ロサンゼルスのスローソンズ[注12]、シカゴのピースストーン・ネーションにすべてを与え、ギャングのメンバーの関心を彼らがそれまでやっていたことから、もっと重大な問題へと転換させました。言い換えれば、ギャングは、社会学者が言っうようにただ仲間とつるみたくて集まるわけではないんです。誰でも何かに属しその一部になることで幸せを感じます。ギャングの一員になって、強盗をしたり、人を怪我させたり襲って金品を奪ったりする以外に、何かの一員になることだって可能なんです。私はフィラデルフィアの出身で、アベニュー・ギャングとノリス・ストリートや近所のギャングをよく知っていますが、彼らにとって重要なのは、ただ何でもいいから属したいというのではなくて、何かを代表し、縄張りをもち、自分の存在を否定した世界の中で自分の尊厳をに手にいれたいということなのです。ブラックパンサー党が言ったのは、ブラックパンサーにはいれば、それと同じことができるということでした。
質問8
マサイア: あなたの目からみてパンサーは党にはいった男女をどのように変えましたか?抑圧勢力に対して立ち上がる強さを与えたとおっしゃいましたが、どのようなやり方で、それを行いましたか?
ブラウン: ブラックパンサー党はストリートのブラザーに特にアピールしたと思います。 私たちは男も女もほしかったけれども、党が勧誘したのは、主に男性、若い黒人のストリート・タイプの都会の男性で、自分の人生には何の選択肢もないのを知っている人たち、ギャングのメンバーたちでした。 前にもいいましたが、自分の尊厳を感じるためにギャングになったような人たちです。バンチー・カーターがメンバーだったスローソンズや、シカゴのピースタウン・ネイション、北フィラデルフィアのノース・ストリートとアベニューなどのギャングです。私たちは彼らを勧誘しました。彼らが残りの人生でなしとげることができるものを私たちはもっていたからです。多くの場合、彼らは暴力や闘いになれていました。闘わなければ、生き残れないことに慣れていました。私たちは彼らに自分の人生を意味あるものにする機会を差し出しました。ヒューイはいつも毛沢東の言葉を引用したものです。「人民のために死ぬことは山よりも重く、何のためでもなく死ぬのは、羽根よりも軽い」と。私たちはいつも言ったものです。ストリーで死んだら犬死にだ、人々のために死ねば、死の意味は重い、と。意味をもつことで、重みが生まれる。ギャングから離れることは、最終的に彼ら自身のために、そして自分のコミュニティのために何かを築くことなんだということ、そのことをはっきりと理解して、大勢のブラザーたちがギャングを離れ、献身的な働きをしたのです。たとえば、ロサンゼルスのリトル・トミー・ルイス[注13]のような人たちです。17歳で警官に殺されました。党にはいったときには、読み書きもできませんでした。でも彼はどうしても党にはいりたかったので、記憶法を習い、本当は読めなかったくせに読めると言い張りました。私たちはそういった人たち、ルンペン・プロレタリアート、ブラックコミュニティの中にいる完全に疎外されている人たち、若い黒人の男性に影響を及ぼしたのです。
質問9
マサイア: 女性のあなたからみて、党に女性をひきつけたのは何だったと思いますか?
ブラウン: 私自身についていえば、黒人男性が自分はいっぱしの男になりたいのだと自分で決めるという考えでした。私自身、いくつかの女性団体に糾弾されましたけれど。フェミニズム的観点からみれば黒人男性のコミュニティに回帰することは許されないことでした。でも、私が育った隣近所は、結婚しているかいないかに関わらず、家にとどまり父親役を果たしている男性がいくら探しても2人くらいしか思い浮かばないような環境でした。ブラックコミュニティの残りの人たち、大半の人たちの場合、統計が人気を得るようになるずっと前から親が離婚していました。さもなければ、少なくとも私たちが思い描く父親のイメージは、不在の父親でした。父親役を果たしていないか、影の薄い存在でした。「いいかい、責任のある父親になる気はあるんだ。立ち上がる気はある。意志はあるんだ」という男たちはいましたが。--多くの意味でマルコムが強いアピールを与えていて、ほかの人たちは彼に惹かれていたけれど、私には、ブランクパンサーが最高でした。私は彼らに男を感じたし、彼らの一部であること--彼らが私の世話をしてくれることに幸せを感じたのです。幼い頃、父親がいない家の子供だった私にとって、主観的にとても大きなアピールを与え、私の感情的な欲求に応えてくれたのです。コミュニティのことを心にかける男性が、黒人がいる。何かをなしとげたいと望み、それを究極まで突き進めようとする人たちがいるいることが、本当にうれしかったのです。
マサイア: 次にうかがいたいのは--
質問10
マサイア: マルコムXについて、そしてあなたの感情や思想、党に対する彼の影響について少し話していただけますか?マルコムは党にどのように影響を与えましたか?
ブラウン: 私は、マルコムのいわば絶頂期には、マルコムについて考えませんでした。ほかに大好きなブラックピープルがたくさんいましたから。私自身についていえば、ブラックプープルという意味で、黒人の身に何が起きているかについて、まったく無意識で無頓着に行動していたと思います。私はただ、自分が暮らしていた北フィラデルフィアのゲットーから外に出たかっただけでした。そしてマルコムは、その点で何のつながりもありませんでした。私はただ抜け出そうとしていましたから。自分は白人の仲間なるんだ、ほかの連中とは違うタイプのニグロになるんだと、思っていました。だから、マルコムが生きていた時には、耳を傾けませんでした。マルコムが1965年に暗殺された時まで、私は彼に耳を傾けていませんでした。彼は公民権運動よりもアピールするとは思っていました。マルコムは非暴力を説きませんでしたから。でも、当時は私の人生にとって意味をもつ人だとはみていませんでした。でも、ブラックパンサー党への影響ということでいえば、私たちはスタイルも中身もほとんどすべてをマルコムに負っていました。少なくとも私たちのスタイル、たとえば、必要なあらゆる手段を取るという考え方、それは、マルコムの言葉であり、私たちはそれを使っていました。マキャベリ的戦略だとか。ブラックピープルの自由を達成する、必要なあらゆる手段を使って革命を達成するというようなことを口にしていました。もちろん、その言葉には、「必要ならば暴力を使ってでも」という含みがありました。そして、つねにそれは必要だという仮定にたっていました。もうひとつマルコムがなしとげたことは、都市の黒人への影響力です。マーチン・ルーサー・キングは基本的には南部の黒人でした。でもブラザーやシスターの中には、特にブラザーですけど、ハーレムや北フィラデルフィア、デトロイト、LAや、オークランドのストリートのブラザーたちには、マーチン・ルーサー・キングの声は届かず、マルコムがアピールしたのです。マルコムの声は彼らの心に響きました。多くの意味で、ブラックパンサーの努力を通して彼らの耳に届いたのです。私たちがアピールしたのは、彼らでしたから。北部の都市の黒人たち。ストリート・キッズたち。それはまたマルコムの支持層でもありました。そういう意味で、私たちの支持層は重なっていました。そして3番目に、マルコムがしただろうことで私たちがやったことがほかにもありました。--マルコムには確固とした信条と原則がありました。単なる女性の保護というようなことを超えて。たとえば私たちは、けして独立した発言をしませんでした。ブラックパンサー党の中にいたとき、たとえばその場に10人いたら、話をするのはひとりだけでした。ひとりの声だけを聴くようにしました。そうすれば分裂しませんから。マルコムには白人が私たちをどうやって内輪もめさせようとするか、はっきりわかっていました。内部分裂について明確に意識していました。そしてそれはブラックパンサー党にとっても大変重要な部分でした。マルコムのビジョンと精神は、パンサーの日々の活動に浸透していたと思います。
質問11
マサイア: プログラムを作っていく際に、ヒューイ・ニュートンがどこかから借用した、あるいは学んだ影響があるとしたら、それは何だったでしょう?そして、ブラック・パンサー党のスタイルはどのよう形成されたのでしょう?
ブラウン: スタイルについては前にも言いました。スタイルを重視しすぎない方がいいと思います。 スタイルは人々のパンサーに対する見方に影響を及ぼしましたが、スタイルが党だったわけではありません。ベレーをかぶったのは、明らかにチェ・ゲバラの影響でした。ブラックパンサー(黒豹)のシンボルは、アラバマ州ロウンデス郡の、投票権を求める自由団体からとりました。初期の好戦性と、私たちが革命的活動と考えていたこととを混同すべきではありません。革命的活動については、あらゆる革命から、全世界の社会主義革命組織から借用しましたし、「ディーコンズ・フォー・ディフェンス(防衛の司祭たち)」[注14]にも影響を受けました。「ディーコンズ」は南部のブラックの男たちのグループで、自分たちは非暴力路線をとらない、俺たちの縄張りに足を踏み入れたら、面倒をみてやろうじゃないかと言っていました。そして、人々から一目置かれるという意味で成果をあげていました。黒人をリンチにし首つりにしていた白人たちも、ディーコンズ・オブ・ディヘンスがいる縄張りにはやってきませんでした。ですから、そういったことすべてが結びついて、―十項目綱領とプログラムは、ネイジョンズ・オブ・イスラムから借りました。彼らの新聞の裏面にいつも印刷されていたものです。最後の綱領だけは違っていました。完全な資本主義の打倒を謳った綱領で、それはネイション・オブ・イスラムではなく、私たちのプログラムの一部でした。でも、綱領を借用したのは、間違いありません。ヒューイは、党の精神で、党の指導力で、党のシンボルでした。でも、もちろん、党は党として独自に団体として発展していきました。
質問12
マサイア: 党の女性たちは何を期待していましたか?それは男性が期待するものと違っていましたか?
ブラウン: いいえ。私たちは少なくとも最初は自分たちが異質な存在とは思っていませんでした。 自分たちは革命家だと考えており、男たちと同じレベルで参加していると考えていました。少なくとも最初はまったく何の違いもありませんでした。私たちは自分たちの献身と努力は男たちと同じだし、やらなければならないことも同じだと思っていました。ですから、私たちの期待は男たちと同じ。米国に革命をもたらしたいと願っていました。[シーン5 テイク7]
質問13
マサイア: サバイバルプログラムはどのようにして生まれたのですか?そして、それはどのように運営されていましたか?どうやって人々を食糧プログラムに参加させましたか?食糧の寄付はどうようにして得ましたか?まず、サバイバルプログラムを支えた思想から教えてください。
ブラウン: プログラムに名前をつけたのはヒューイでした。サバイバルプログラムは革命が起こるまで生き残るという理論から、私たちで開発したプログラムでした。 ブレクファストプログラムは最初は―サバイバルプログラムとは呼ばずブレクファストプログラムと呼んでいました。
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マサイア: やり直しましょう。アイコンタクトを忘れないでください。[シーン5,テイク8]
マサイア: やり直しましょう。アイコンタクトを忘れないでください。[シーン5,テイク8]
質問14
マサイア: サバイバルプログラムについて話していただけますか?背後にあった思想は?どのようにして始まり、どうやって実現したのですか?
ブラウン: サバイバルプログラムは最初はヒューイの発案でした。このプログラムを開発しようと思う、目的は民衆のサバイバル、革命勃発まで皆をいきのびらせなくちゃ、ということでした。でも、ブレクファストプログラムは、社会プログラム全体、社会福祉プログラムの一環で、最初はサバイバルプログラムとは呼んでいませんでしたが、結局、全体の活動の一部になりました。ブレクファストプログラムは、もちろん、パンサーのプログラムの中で一番よく知られています。子供たちに朝ご飯を提供する。プログラムの背後にあったアイディアは、ただ子供たちが学べる環境になかったことです、黒人の子供たちは劣悪な教育課程のために、学校で学ぶことができませんでした。食べるものがなければ、勉強どころではありません。だから、私たちはブレクファストプログラムを始めました。最初のプログラムはサンフランシスコのファザー・ボイル[注15]の教会で行いました。おかしな話ですが、私たちに場所を提供してくれる黒人の牧師や司祭があまりみつからなかったんです。教会を開放してくれるよう話をつけたかったのですが。教会なら調理施設もあるし、大勢の子供たちを集められますからね。ブレクファストプログラムは、ここから広がっていきました。オークランドのファザー・ニールや、郡のその他の支部や教区の人たちが協力してくれました。プログラムには、ふたつのアイディアが重なっていました。私たちのプログラムから直接、恩恵を受ける人たちにサービスを提供するという具体的な目的がひとつ。でもまた、2つ目には、人々の心に影響を与えること、ブラックパンサー党が彼らにこのサービスを提供しているということを人々にわかってもらうというにとどまらず、もっと重要なことは食糧を提供されれば、着るものもほしくなる、住む家や土地もほしいと感じ、究極的には自由と呼ばれる抽象的なものもほしくなるだろう、ということでした。ですから、サバイバルプログラムのアイディアは、政治的組織化のツールでした。大半の人々はそのことを理解していませんでしたが。食糧の供与で完結すると思っていました。でも、そうではなかったのです。ブレクファストや食糧プログラム、医療クリニック、法的防御プログラム、刑務所面会の送迎バス、衣料プログラムなどは、それを通して人々を政治過程へと導く入り口という位置づけでした。私たちはとても多くのさまざまなプログラムを作り、各支部は自分たちの独自性を反映するプログラムを組み立てました。一般的にいって、私たちは民衆にサービスを提供し、民衆が政治的課程に参加する糸口作りに役立てたいとパンサーの皆は考えていたと思います。
[続く]
脚注
1)
ジョン・ハギンス(1945‐1969)は、コネチカット州ニューヘイブンの生まれ。結婚相手のエリカ・ハギンスと共にロサンゼスルに移り、ブラックパンサー党の活動に打ち込むようになった。1969年に同じくメンバーのバンチー・カーターと共にUCLAでの黒人民族主義団体「USオーガニゼーション」との会合に出席中に同団体メンバーによって銃殺された。1971年にFBIの対諜報プログラム「コインテルプロ」の文書が暴露され、FBIが偽の手紙を送って、ブラックパンサーとUSオーガニゼーションとの敵対関係を意図的にあおっていたことが明らかになった。
2)
バンチー・カーター(1942‐1969)は、元ロサンゼルスのストリート・ギャング「スローソンズ」のメンバーで、「ゲットーの市長」と呼ばれ一目おかれていた。強盗犯として入獄中にネイション・オブ・イスラムとマルコムXの教えに感化されてイスラム教に改宗。釈放後、ブラックパンサー党の共同創立者ヒューイ・P・ニュートンと出会い、入党。1968年にパンサーの南カリフォルニア支部を立ち上げた。1969年に、ジョン・ハギンスと共に、UCLAで射殺された。
.3)
エルドリッジ・クリーバー(1935‐1998)は、ブラックパンサー党の主要メンバー。情報相として、パンサーの公式新聞の編集に携わり、パンサーの共同創設者ボビー・シールとヒューイ・P・ニュートンとならんでパンサーの進路に大きな影響を与えた。1968年には、「平和と自由」党から大統領選に出馬した。同年にパンサーのメンバー、ボビー・ハットンと共にオークランドで警官の射撃を受け、ハットンは死亡、クリーバーは負傷した。殺人未遂で指名手配されたクリーバーは、キューバーを経てアルジェリアに逃亡した。思想の違いを理由にパンサーから離党し、キューバやフランスで活動を行った。1975年に米国に帰国。共産主義を放棄して保守主義に転向した。著書に「氷の上の魂」がある
4)
ボビー・ジェイムズ・ハットン(リトル・ボビーとも呼ばれる)(1950‐1968)は、1966年にブラックパンサー党が結成直後に16歳で参加した。1968年にエルドリッジ・クリーバーらと共に警官隊との銃撃戦で射殺された。
5)
ヒューイ・P・ニュートン(1942- 1989)は、1966年、友人のボビー・シールとともに、カリフォルニア州オークランドでてブラックパンサー党を結成、カリスマ的な指導者となったた。フランツ・ファノンやマルコムX、毛沢東、チェ・ゲバラなど共産主義者の著作を読み、影響を受けた。ブラックパンサー党は当初、都市部のゲットーに居住する貧困層の黒人に対する警察の暴行や略奪行為から自衛することを目的とし、貧困層の児童に対する無料朝食や無料医療運動など地域活動にも力を入れた。1968年、非暴力運動の指導者だったキング牧師が暗殺されると、ニュートンらは武装闘争を主張し、党は数千人規模に成長したが、ブラックパンサー党の活動に危機感を抱いた合衆国政府は、警察や連邦捜査局(FBI)による弾圧を受け、メンバーから多数の死者を出し、壊滅的な打撃をを受けた。
6)
アラバマ州のラウンデス郡自由組織(the Lowndes County Freedom Organization: LCFO)は、1965年にブラックパンサー党という名の組織を結成し、ブラックパンサー(黒豹)をシンボルに使った。人口の8割が黒人でその大半が貧困層だったこの地域で白人至上主義者たちに仕切られ、黒人たちは独自の候補を出せずにいた。LCFOは、白人至上主義者たちの露骨な妨害を受けながら、「ブラックパワー」をモットーに選挙を通しての黒人パワーの拡張をめざした。ヒューイ・P・ニュートンとボビー・シールはオークランドでのブラックパンサー党結成の際、LCFOにブラックパンサーの名とシンボルの使用許可を得て承認を受けた。
7)
ネイション・オブ・イスラムは、「ブラック・ムスリム」とも呼ばれ、米国におけるアフリカ系アメリカ人のイスラム運動組織。ブラック・ムスリム運動とも呼ばれ、世界恐慌中の預言者を名乗っていたウォーレス・ファード(ムハンマド)によって1930年にデトロイトで創始された。黒人の経済的自立を目指す社会運動であり、白人社会への同化を拒否し、黒人の民族的優越を説く宗教運動でもある。イライジャ・ムハンマドの布教によって全米に広がった ネイション・オブ・イスラム は、第二次世界大戦後に入信したマルコムX の活躍で大発展を遂げた。イライジャの思想の宣伝活動者となったマルコムは、黒人の貧困救済を唱えて北部の都市部で苦しむ黒人たちの間に勢力を広げる一方、白人を悪魔と呼んで激しく批判したため、米社会全体からは過激派や分離主義者と見られることが多かった。
8)
ブラックパンサー党は、結成直後、以下の十項目綱領を決定し、活動の軸とした。]
§ 我々は、我々黒人および抑圧されたコミュニティーの運命を決定する力を欲する。
§ 我々は、我々人民の完全な雇用を欲する。
§ 我々は、資本家による、我々コミュニティーに対する搾取の終わりを欲する。
§ 我々は、人間が居住するに値する最低限の住宅を欲する。
§ 我々は、人民のための、アメリカ社会の真実を暴露する教育を求める。
§ 我々は、真実の歴史と、今日の社会における我々の役割を教える教育を欲する。
§ 我々はすべての黒人と、抑圧された人民の完全な健康を欲する。
§ 我々は警官による、アメリカ合衆国国内における黒人および抑圧されたほかの人種の人々に対する暴力行為の即時停止を欲する。
§ 我々は、すべての侵略戦争の即時中止を欲する。
§ 我々は、国立、州立、地方、都市、および軍の刑務所に収監されている黒人の解放を欲する。我々は、この国の法律のもとでいわゆる犯罪のために告訴された囚人のために、同じ階層出身の陪審員による裁判を欲する。
§ 我々は、土地、パン、教育、住宅、衣服、正義、平和および現代技術によるコミュニティーの統治を欲する。
9)
1967年2月、ニュートンはベイエリアで講演旅行中だったマルコムXの未亡人、ベティ・シャバズに武装警護を提供した。
10)
1967年10月28日、ヒューイ・P・ニュートンとオークランド警察との間に銃撃戦がおき、警官1人が死亡、負傷したニュートンは逮捕された。ブラックパンサーは、この事件をたび重ねておきていた警察による残酷行為の実例として、ほかの黒人運動と共闘して「フリー・ヒューイ(ヒューイ釈放)」運動を大々的に展開した。
11)
ジェロニモ・プラットはブラック・パンサー党の主要メンバーとしてFBIのコインテルプロ・プログラムのターゲットにされた。1972年に誘拐・殺人の嫌疑で裁判にかけられ、8年間の独房監禁を含め、27年間を刑務所で過ごし、1997年に有罪判決が無効とされ釈放され
た。現在は人権活動家。ラッパーのトゥパック・シャクールのゴッドファザーとしても知られる。
た。現在は人権活動家。ラッパーのトゥパック・シャクールのゴッドファザーとしても知られる。
12)
スローソンズは、ロサンゼルスのサウスセントラル地区のギャングで、サウスセントラルの縄張りを白人のギャングから守った。
13)
1968年8月、ロサンゼルス警察は、17歳のパンサー・メンバー、トミー・ルイスをほかの2人のメンバーとともに殺害した。
14)
「ディーコンズ・オブ・ディフェンス(防衛の司祭たち)」は、1960年代に米国南部で組織された、自衛のために武装したアフリカ系アメリカ人の公民権運動団体。ジム・クロウ法下の南部で、レイシストによる抑圧に対して、必要とあらば暴力の行使も辞さなかった。キング牧師をはじめとする運動の非暴力のイメージにそぐわないため、公民権運動の歴史においてこれまで語られることが少なかったが、その活動は、実際には南部で大きな影響を得て、公民権法の制定に大きな役割を果たしたとする見方が、近年、力を得ている。
15)
ファザー・グレゴリー・ボイルは白人のイエズス会神父。ロサンゼルスで長年にわたり元ギャングのメンバーのために仕事を探す活動をおこなっている。”G-Dog and the Homeboys”という著書がある。
アイズ・オン・ザ・プライズⅡ(Eyes on the Prize II )インタビュー
エレイン・ブラウン・インタビュー
インタビュアー: ルイス・マサイア、テリー・ロックフェラー
プロダクションチーム: B
インタビュー実施日:1988年10月14日
カメラロール: 3013-3016
サウンドロール: 306-308
プロダクションチーム: B
インタビュー実施日:1988年10月14日
カメラロール: 3013-3016
サウンドロール: 306-308
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