2011年5月25日水曜日

コーネル・ウェスト:マルコムXと黒人の怒り(抜粋:Part 1)

コーネル・ウェストの代表的な著作"Race Matters"(1994)から、「マルコムXと黒人の怒り(Malcolm X and Black Rage)の章からの抜粋の試訳を2回にわけてお届けします。なお、本書の全訳は、『人種の問題―アメリカ民主主義の危機と再生』(山下慶親・訳、新教出版社)というタイトルで出版されています。(訳:大竹秀子)





マルコムXは、米国史上、かつてないやり方で黒人の怒りを、雄弁に表現した。怒りを伝える彼のスタイルには、煮えたぎる切迫感と無鉄砲な率直さが見て取れた。彼が語った内容は、米国でアフリカ人の子孫が直面している、まぎれもない不条理―黒人の知性、美、特性、可能性への絶え間のない攻撃―を、大半のアメリカ人が認めようとしない、病みつきの拒絶を浮き彫りにした。いかなる代価を払っても黒人の人間性を肯定しようとする心底からの献身と米国社会の偽善を浮き彫りにする途方もない勇気により、マルコムXは、当時もそしていまも、黒人の怒りの予言者になった。



マルコムXが黒人の怒りの予言者になったのは、何よりも、黒人への大きな愛による。その愛は、抽象的なものではなかったし、つかのまでもなかった。それどころか、心の回心を必要とする、貶められ価値を奪われた人々との現実のつながりだった。だからこそ、マルコムXの黒人の怒りの雄弁な表現が、白人のアメリカに真っ先に向けられることはなかった。それよりもマルコムは、もし黒人がその怒りの動機となっている愛を感じたならば、その愛は黒人に心の回心をもたらすと信じた。 黒人たちは人間としての自分を肯定し、自分の身体や心そして魂を白人の色眼鏡を通して見ることをやめ、自らの運命を自分の手に握ることができるようになると、彼は信じた。

米国社会では―特にマルコムXが生きた1950年代と1960年代初期には―そのような心の回心は、いとも簡単に死をもたらしかねなかった。白人の人種差別的な圧迫のくびきを振り払い、自分の運命を自ら管理することができる黒人の能力を心底、信じ、誇り高く自らを肯定する黒人は、偉大なビリー・ホリデイが切々と歌った、南部の木になる奇妙な果実になりはてて終わるのが常だった。だから、黒人の怒りを雄弁に語った時、マルコムXはまた、真に自分を愛する黒人が、米国社会の中で自分を愛する存在であることにより引き起こされる恐ろしい結果に直面するには、勇気と犠牲が必要であることを自らの人生で身をもって示すはめになった。言い換えれば、マルコムXは、黒人の自己肯定、黒人の自由への望み、米国社会に対する黒人の怒りと黒人たちの若死にの可能性とのつながりを、鮮明に具現化してしまったのだ。

マルコムXの「心の回心」という発想は、黒人はもう白人の色眼鏡を通して自分をみることをやめねばならないと説く。黒人が自分を低く評価する価値基準を受け入れている限り、けして自分を尊重できないと、彼は主張する。たとえば、マイケル・ジャクソンが、肌の色でなく(黒人でも白人でもなく)一人の個人としてみられたいと望むのは正当なことかもしれないが、彼の顔の「修正」をみれば白人の基準に基づいて自分を測定しているのは明らかだ。だから、彼は史上最大のエンタテイナーの一人であるにも関わらず、少なくとも部分的には、いまなお、自らのアフリカ系特性の価値を低くみる美的色めがねを通して自分を見つめている。言うまでもなく、マイケル・ジャクソンの例は、多くの黒人プロフェッショナル階級の間で広くひろまっている自己嫌悪の、正直で、目にはっきりみえる一例にすぎない。マルコムXの、心の回心への提唱は、往々にしてこの特権的な集団に恐怖心をひきおこす。なぜなら、自分が何ものであるか、そして自分が何をしているかについてのあまりにも多くが、米国社会では、富、地位、特権によって評価されるからだ。他方で、この集団はほかの人たち以上にマルコムXの主張をよく理解している。なぜなら、彼らは黒人の価値をみくびることをあまりにも頻繁に当然視し、無意識に自明のこととする白人の世界と、あまりにも密接に生きてきたからだ。黒人ミドルクラスがマルコムXに対してつねにどっちつかずの関係をもってきたのは、このためだ。米国社会に全面的に挑戦するマルコムXの好戦的な戦略をあからさまに拒絶しながら、彼らは米国社会のレイシズムの深さについて語る彼の大胆な真実を密かに受け入れるのだ。黒人プロフェッショナルのオフィスでマルコムXの写真に出くわすこと(マーチン・ルーサー・キング・ジュニアの場合よくあるように)は滅多にないが、大半の黒人プロフェッショナルの人種的記憶のクローゼットの中にマルコムXの骸骨が隠しもたれているのは間違いない。

要するに、マルコムXの心の回心は、W・E・B・デュボイスの「二重意識」[注1]への暗黙の批判なのだ。デュボイスはこう書いた。

「ニグロは、このアメリカ世界に、ベールをかけられ、2番目の視覚を備えて生まれた第7の息子といえる―その世界は、彼に真の自意識をもつことを許さず、もうひとつの世界のお告げを通して、自分をみさせる。それは奇妙な感覚だ。二重意識、いつも他人の目を通して自分をみつめ、軽蔑を楽しみ哀れみをもって傍観する世界の巻き尺で自分の魂を測るのだ。」

マルコムXにとってこの「二重意識」は、黒人世界と白人世界の「はざまで」生きる黒人により大きく関係するものだった。両者の間の境界線を超えながら、そのいずれにも定住することがない黒人だ。このため、彼らはその両方で仲間に受け入れられたいと切望するのだが、どちらからも本当に受け入れられることはなく、それでもなお、支配的な白人社会のレンズを通して自らを眺め続けようとする。マルコムXにとっては、この「二重意識」は、アメリカ人である黒人の必然的なあり様の記述であるというよりも、黒人アメリカの特殊な集団の植民地化された特殊な心情を意味した。デュボイスの「二重意識」は、黒人たちを、白人からの承認の探求と、主に白人レイシストによる評価によってもたらされる失望に閉じ込めてしまうが、マルコムXは、この悲劇的な症候群を心の回心によって断ち切ることができると示唆する。だが、どうやって?

マルコムXは、この問いに対する答えを出していない。まず、彼の有名な「ハウス・ニグロ(白人の主人を愛し保護する)」[注2]と「フィールド・ニグロ(白人の主人を憎み抵抗する)」との区別だが、これは、黒人大衆は、白人の現状に「吸収」されるよりも、非植民地化された感受性を獲得する可能性が高いことを示唆している。 だが、このレトリックは、黒人たちの間の異なる観点をきわだたせる点で洞察力に満ちた仕掛けではあっても、「富裕な」黒人たちと「貧しい」黒人たちの行動の説明としては、説得力を欠いている。言い換えれば、「ハウス・ニグロ」のような考え方をする「フィールド・ニグロ」の例も「フィールド・ニグロ」のような考えをもつ「ハウス・ニグロ」の例も枚挙にいとまがないからだ。頻繁に引用されるマルコムXのこの区別は、高度に同化した黒人プロフェッショナルたちの「白さ」(そのあらゆる多様な形態において)をあがめ奉る性癖を適切に浮き彫りにするが、「貧しい」黒人たちの「黒さ」に対する考えと行動化を無批判に描きがちでもある。このため、デュボイスの「二重意識」という思想へのマルコムの暗黙の批判にはいくらかの真実があるとはいえ、提出される代案は不適切なものに終わる。

次に、マルコムXの黒人民族主義的な視点が主張するのは、白人至上主義イデオロギーとその実行に対する唯一正当な対応は、「二重意識」が生む緊張感から解放された、黒人の自己愛と自己決定であるということだ。この主張は、微妙で、かつ、問題がある。それが微妙なのは、あらゆる黒人の自由運動は、アフリカ系の人間性の肯定と、黒人の運命に対する黒人による管理の追求を前提とするからだ。しかしながら、すべての形態の黒人の自己愛がアフリカ系の人間性を肯定するわけではない。さらに、黒人の自己決定のあらゆるプロジェクトが、黒人の運命に対する黒人による管理への真剣な追求であるとも言い難い。マルコムの主張が、黒人民族主義は黒人の自己愛と黒人の自己決定に関して独占権をもつと仮定しがちなのは、問題だ。この誤った仮定により、黒人民族主義が浮き彫りにした問題と、黒人民族主義やその他の人々がこの問題を理解するさまざまな方法とが混同されてしまう。

たとえば、マーカス・ガーベイの偉大な遺産のおかげで、黒人の自己愛と黒人の自尊があらゆる黒人の自由運動の中心にあることを我々はけして忘れない。しかし、だからといってこれは、我々が黒人の自己愛と黒人の自尊について、ガーベイが行ったやり方で、すなわち、黒人の陸軍と海軍がブラックパワーの表われであるというような帝国モデルに則って語らなければならないということを意味しない。同様に、エライジャ・ムハンマドの伝統は、我々に黒人の自愛と黒人の自尊心の重要性を認めることを強いるが、だからといってそれは、白人至上主義にとらわれている我々を目覚めさせるという目的を達成するために黒人至上主義のゲームを行うという、エライジャ・ムハンマドが語ったやり方を受け入れねばならないということでもない。ここで私が言いたいのは、黒人民族主義者たちが正当にも狙いをさだめた問題に焦点を合わせ、黒人民族主義者の洞察力に心を開くことは、必ずしも、黒人民族主義イデオロギーを受け入れることではないということだ。黒人の自己愛への適切な焦点、白人至上主義に黒人がとらわれていることへの豊かな洞察、そして心の回心に関する深遠な概念にも関わらず、マルコムXはそのような不当な行動を取りがちだった。


マルコムXの「心の回心」という発想は、煮えたぎる黒人の怒りから、黒人コミュニティ、人間性、愛、配慮、心配り、助け合いが広く行われる黒人の空間が浮上するという考えに負っている。しかしながら、この点で、マルコムXのプロジェクトは行き詰まる。どうやって、煮えたぎる黒人の怒りを封じ込め、黒人の空間へと導き、破壊的で自己破壊的な結果を和らげることができるのか?マルコムXの偉大さのひとつは、彼がこの根本的な挑戦を黒人アメリカにそれまで課されたことのなかった鋭さと緊急性を伴って、提起したことだ。(訳:大竹秀子)



脚注


1)W・E・B・デュボイスの「二重意識」という概念については、マニング・マラブルの次の1節が参照になる。


「彼(デュボイス)が打ち立てた文化的構造は、『黒人のたましい』の中で述べられた「二重意識」だった。アメリカの黒人民衆の中核意識は、正反対のものの統一 ―黒人であることとアメリカ人としてのアイデンティティという二重のリアリティ―の中に見いだされると、彼は論じた。デュボイスの主張によると、ニグロ・アメリカ人とは「アメリカ人とニグロの両方であり、ふたつの魂、ふたつの思考、おりあいがつきようもないふたつのものの懸命な試み、ひとつの浅黒い身体の中で闘いあうふたつの理想であり、容易に屈しない強さがなければ、ばらばらに引き裂かれていただろう」。黒人アメリカ人の歴史は、すべからく文化的かつ集団心理学的な闘争の歴史であり、「自意識をもつおとなになり、二重の自分をより良くより真実な自分に融合したいという切望の歴史であった」。この文化的な変身の中で、デュボイスは、それぞれの源泉がもつ批判的な要素が保持されることを望んだ。
彼がアメリカをアフリカ化することはないだろう。アメリカには世界とアフリカに教えるべきものが山のようにあるからだ。アメリカ主義の洪水の中でニグロの魂を薄めてしまうこともないだろう。なぜなら、ニグロの血が世界に向けたメッセージをもつことを知っているから。彼はただ、仲間から悪態をつかれたりつばを吐きかけられたりすることなく、「チャンス」のドアが目の前で手荒に閉ざされることなく、ひとりの人間がニグロであると共にアメリカ人でもあることを可能にしたかっただけだ。だから、彼の格闘の目標は、こうだ。文化の王国の中で共に働く者となり、死と孤立のいずれからも逃れ、自らの最善の力と潜在的な才能を無駄にせず活用すること、だ。」――Manning Marable “Black Leadership” (1998. NY: Columbia University Press: p.43-44)


2)1963年11月10日、ミシガン州デトロイト市のキングソロモン・バプティスト教会でなされた、マルコムXは次のように演説した(「Message to the Grass Roots(草の根へのメッセージ)」)。
http://www.youtube.com/watch?v=znQe9nUKzvQ
「ニグロには、二種類ある。昔でいう「ハウス・ニグロ(家事の黒人)」と「フィールド・ニグロ(野良仕事の黒人)」です。
ハウス・ニグロはいつでも主人を気にかけます。フィールド・ニグロが出過ぎたまねをすると押さえ込み、プランテーションに追い返します。ハウス・ニグロはフィールド・ニグロよりも良い暮らしをしてきたので、そんなことができるのです。より良いものを食べ、より良い服を着て、より良い家で暮らしてきました。主人の身近の、屋根裏や地下で暮らしてきた。主人と同じものを食べ、同じ服を着ました。そして主人と同じように―きちんとした言葉遣いで話すことができた。主人が自分自身を愛する以上に、主人のことを愛しました。だから、主人を傷つけたくなかった。主人が病気になりでもしたら、「どうなさいました。私たちは病気になってしまったんでしょうか?」と言いました。主人の家に火がついたら、火を消そうと必死になりました。主人の家を燃やしたくなかった。主人の財産を危険にさらしたくなかった。主人以上に熱心に守りました。


これが、ハウス・ニグロです。でも、掘っ立て小屋に住み、何も失うものが無いフィールド・ニグロもいました。彼らは最悪の服を着ていました。最悪の食べ物を食べました。そして、ひどい目にあった。ムチの痛みを感じていました。主人を憎悪していました。そう、憎悪です。主人が病気になると、主人が死にますようにと祈ったでしょう。主人の家が火事になったら、強風がやって来ますようにと祈ったことでしょう。これが、両者の違いでした。


いまでも、ハウス・ニグロとフィールド・ニグロがいます。私は、フィールド・ニグロです。」


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