1965年2月27日に、フェイス・テンプル・チャーチ・オブ・ゴッドでのマルコムXの葬儀で、オシー・デイビスが読んだ弔辞です。2月21日、殺害されたマルコムXの告別式をハーレムの多くの教会は断りました。物騒な殺され方をし、敵も多く、暗殺者の背景もはっきりしないきな臭い段階で、マルコムXに関わる危険を恐れたのです。結局、爆破の脅迫にもめげずフェイス・テンプル・チャーチ・オブ・ゴッドが引き受け、公民権運動の活動家でマルコムX夫妻の友人、ハーレムの住人だったオシー・デイビスが葬儀の司会役を務め、歴史に遺る弔辞を述べました。(訳:大竹秀子)
英文はこちら:http://www.hartford-hwp.com/archives/45a/071.html
ここ—この最後の時に、この静かな場所で—ハーレムは、そのもっとも輝ける希望のひとつに別れを告げることになりました—希望はいまや消え、我々のもとから永遠に去ってしまった。ハーレムは彼が仕事し、もがき闘った場所でした—彼の心が住まい、彼の人々が住む、どこにもまして彼の家でした—ですから、私たちが—ハーレムで—もう一度集い、彼とのこの最後の時を共にするのは、何よりもふさわしいことです。
ハーレムは、ハーレムを愛し、ハーレムのために闘い、命を賭けてでもその名誉を守った人々にいつも恵み深く接してきました。苦境に立つ不運な、にも関わらず誇り高いこのコミュニティが、我々の前に横たわっている—いまなお征服されることなく—このアフロアメリカ人以上に、勇敢で雄々しい若きチャンピオンを見いだしたことは、誰の記憶にもありません。
この言葉をもう一度、繰り返しましょう。きっと彼もそう望むでしょうから。アフロアメリカ人、と。—アフロアメリカ人マルコムは、言葉の達人であり、ことばの細部にまで大変こだわりました。ことばが人々の心に及ぼす力を彼以上に知っている人はいませんでした。
マルコムは、ニグロであることを何年も前にやめました。彼にとって、あまりにもせせこましく、稚拙で、弱々しいことばになったからです。マルコムはそれよりも大きな存在でした。マルコムはアフロアメリカ人になりました、そして、わたしたち、彼のまわりにいる人々全員にもまた、アフロアメリカ人になってほしいと、—心底—願っていました。
私たちに彼を罵倒するよう勧めることが、ニグロの民衆の友である自分たちの義務だと心得る人たちがいます。彼の思い出の存在からさえ逃れ、我々の激動の時代の歴史から彼の名を消し去ることにより、私たち自身を救え、と。
怒り狂い、物議を醸し出す、この大胆な若き指導者に敬意を表したりして、ハーレムは何のつもりなんだ、と問う人が大勢いるでしょう。—それを聞いて、私たちはほほえむでしょう。顔をそむけろという人が大勢いるでしょう—この男から目をそらせ。だってあいつは人間ではなく悪魔で、怪物、黒人の敵なのだからと—私たちはほほえむでしょう。あいつは憎悪の塊だ—狂信者、レイシスト —きみたちが闘っている義に邪悪をもちこみかねない! 私たちは、そんな人たちに答えてこう言うでしょう。
あなたは、ブラザー・マルコムと話したことがありますか?彼に触れ、あなたにむかってほほえむ彼に接したことが?彼の言葉に本当に耳を傾けたことがありますか?彼は何か卑劣なことをしましたか?暴力や争乱沙汰をおこしたことが、これまでにありましたか?接したことがあれば、あなたは彼を知っていた。そしてもし彼のことを知っていたなら、なぜ私たちが彼に敬意を払うべきだかわかるでしょう。マルコムは、私たちの男らしさ、私たち黒人の男らしさの生きた証でした。
それが、人々にとっての彼の意味でした。彼に敬意を表すことで、私たちは自分たちの中にある最良のものに敬意を表するのです。昨年、アフリカから、友人に宛てて彼はこんな言葉を書き送りました。「旅はほとんど終わり、私は旅を始めた時よりもずっと幅広い視野をもっています。それが、米国で自由と名誉と威厳を求める私たちの闘いに新しい生命と次元を加えるものと信じています。
私がこのようなことを書くのは、アフリカ諸国の間には、我々の人権を求める闘いへの莫大な共感と支援が存在するという事実をあなたにも知ってもらいたいからです。大切なことは、統一戦線を維持し、我々の何より貴重な時間とエネルギーが仲間うちの闘いのために無駄使いされないようにすることです。」
私たちと彼とがどんなに違っていようと—ひとりの人間としての彼と、その価値について、私たちの間でお互いの見方がどんなに異なっていようと——彼が私たちから去っていくことを、私たちがひとつになるために役だてましょう。
この遺骸(むくろ)を我々皆の共通の母である大地に預けながら、私たちは、私たちが地中に委ねるものが、もはや一人の人間ではなく、—ひとつの種子であり、—不満の冬が去った後、再び私たちに会いに立ち現れると確信しています。
そして、私たちは、彼が、何であったか、そして何であるかを知るのです—貴公子—私たちを深く愛したため、死をもいとわなかった私たち自身の光輝く黒い貴公子!なのだと。
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