52年前、ファニー・ルー・ヘイマーが民主党全国大会で演説すると知ったとき、時の米大統領リンドン・ジョンソンは、突然、無意味な記者会見をホワイトハウスで開くと発表した。ヘイマーの声が全米のテレビに流れ、人々の心に届くことを恐れたからだ。大統領を、それほどまでに恐れさせた演説とは?(大竹秀子)
ファニー・ルー・ヘイマー(1917-1977)が黒人にも投票権があると知ったのは、1962年、44歳の時だった。ミシシッピー州の20人の子をもつ小作人(シェアクロッパー)の家に生まれ、綿花をつみとうもろこしを収穫して育ったファニー。結婚した相手も同じ地主の下で働く小作人だった。そんな彼女が激動する政治の渦の中心に立つことになったのは、60年代初期のある日、学生たちが作った公民権運動の組織SNCCの集会をたまたまのぞいたことからだった。アメリカの有権者が投票するには、事前登録が必要だ。当時、黒人差別が特に激しかった南部でSNCCはさまざまな妨害にあいながらも黒人たちの投票登録運動を進めていた。投票の権利を知り、自由を求めて投票権を得ようとしたために、ファニーはさまざまな迫害にさらされた。夫もろとも、即刻、地主から解雇され、警察に留置され一生涯、腎臓に後遺症が残る暴力行為を受けた。だが、ファニーは、確信していた。ただ待っているだけでは自由は、訪れない。自由をもとめ「うんざりする目にあわされ疲れ果てることに、うんざりし疲れ果てた」という名言を残したファニーは、1964年、党代議員の全員が白人だったミシシッピー州から黒人の党「ミシシッピー自由民主党(MFDP)」代表として民主党全国大会に赴き、黒人有権者の声を政治に反映させようと試みた。時の大統領ジョンソンは、公民権運動に大きく貢献した人物だったが、差別主義者も多い党の南部票を失うことを恐れ、党大会での黒人パワーを恐れた。結局、民主党全国大会に黒人代表の参加が実現したのは、次の1968年の大統領選からだったが、民主党全国大会へのMFDPの参加資格を問う委員会で行われたヘイマーの演説は、アメリカの民主主義の歴史に残るものになりました。
ファニー・ルー・ヘイマー演説全文
(リンクから、録音が聴けます。)
議長、資格認定委員会の皆さん、私の名はミセス・ファニー・ルー・ヘイマー。ジェイムズ・O・イーストランド上院議員とステニス上院議員の地盤、ミシシッピー州サンフラワー郡ルールビル、東ラファイエット通り626番地の住人です。
一級市民になるために、私たち18名が26マイルの旅をしてインディアノーラの郡裁判所に出向いたのは1962年8月31日のことでした。
警官たち、ハイウェイパトロールが私たちを出迎え、その日、読み書き能力試験を受けることを許可されたのは2人だけでした。この試験を終えてルールビルに戻り始めると、市警と州のハイウェイパトロールが私たちを止め、インディアノーラに連れ戻され、バスの車体の色が正しくないとしてバスの運転手は罪を問われました。
私たちは工面して罰金を払い、ルールビルに戻りましたが、ジェフ・サニー牧師が私を4マイル先の農村地帯につれていきました。私がそれまで18年間、就業時間記録係、そして小作人として仕事してきた場所です。うちの子供たちがそこで待っていて、私が登録に出向いたため、プランテーションの持ち主が腹を立てていると言いました。
子供たちの話を終わると夫が来て、私が登録しようとしたことでプランテーションの持ち主が大騒ぎしていると告げました。夫が話し終えないうちに、プランテーションの持ち主が来て、「ファニー・ルー。私が言ったことを亭主から聞いたか?」と言いました。
「イエス、サー」と私は言いました。
「本気だからな」とプランテーションの持ち主は言いました。「登録を取り消しに行かないのなら、ここから出て行け。いずれにしろ、取り消して来い。我々ミシシッピー住民には、受け入れられないことだ」
私は、こう言いました。「登録しようとしたのは、あなたのためではありません。自分のために登録しようとしたんです」
その夜、農園を去らざるを得ませんでした。
1962年9月10日、私のおかげで、ロバート・タッカー夫妻の家に16発の銃弾が発射されました。その日の夜、ミシシッピー州ルールビルで少女2人が銃撃され、ジョー・マクドナルドさんの家も銃撃を受けました。
1963年6月9日、私は投票者登録ワークショップに出席し、ミシシッピー州に戻るところでした。私たちは総勢10人、コンチネンタル・トレールウェイのバスで旅していました。ミシシッピー州モンゴメリー郡のウィノナで洗面所を使うために 4人が下車しました。2人は、レストランに行くため、2人はトイレに行きたかったのです。
レストランに行った4人は、出て行くよう命じられました。この間、私はバスに乗ったままでした。でも窓から見ていると4人が追い出されるのが見えたので、バスを降り何が起きているのか見に行きました。「州のハイウェイパトロール隊員と警察署長に、出て行くよう命令された」と一人が言いました。
バスに戻ってみると、洗面所に行っていたうちの一人もバスに戻っていました。
バスの座席についたとたん、5人を警察の車に乗せようとしているのが見えました。何が起きているのかみようと、私がバスを降りると、車の中から、誰かが車内には5人の投票者登録係がいると叫び、さらに「そこにいる、あいつもつかまえろ」と言いました。私が警察の車にはいると、その人物はお前を逮捕したと言い、私を蹴りつけました。
私は郡留置場につれていかれ、逮捕手続きを行う部屋に入れられました。数人がこの部屋に残されましたが、私たちは監房に移され始めました。私は、ミス・イヴェスタ・シンプソンという名の若い女性と一緒の監房に入れられました。監房に入ると、強打と叫び声が聞こえ始めました。強打の音と恐ろしい叫び声が聞こえたのです。誰かが、こんなことをいう声もしました。「『イエス、サー』と、言えないのか?え、どうなんだ?」
ひどい呼び方をしているのも、聞こえました。
「『イエス、サー』と、言うことはできます」と、女性の声が答えました。
「だったら、そう言ったらどうだ」
「あなたがどんな人が[サーと敬称にふさわしい人かどうか]わかりませんから」
彼らはこの女性を殴りました。ずいぶん、長い時間をかけて。しばらくしてから、この女性は祈り始めました。神に向かって、この人々にお慈悲をと祈ったのです。
まもなくして、白人の男たちが私の監房にやってきました。中の一人は州のハイウェイパトロールの隊員でどこから来たのかと私に聞きました。ルールビルからだと答えると「確認してみる」と言いました。
彼らは監房から出て行きましたが、まもなく戻ってきました。「ルールビルから来たことはわかった」といい、罵倒のことばを浴びせました。そして「死んだ方がましだと思うような目にあわせてやる」と言いました。
私は監房から出され、別の監房に移されました、そこには黒人の囚人が2人いました。ハイウェイパトロールの隊員は、一人目の黒人に警棒をもたせました。
ハイウェイパトロールの隊員に命じられ、1人目の黒人は、私に簡易ベッドにうつぶせで横になるよう命じました。
私がうつぶせに横になると一人目の黒人が、私を殴り始めました。1人目の黒人はへとへとになるまで私を殴りました。私は6歳の時、小児麻痺にかかっていたので、その時、両手を身体の左側で握りしめていました。
一人目の黒人が殴り疲れてへとへとになると、ハイウェイパトロールの隊員は2人目の黒人に警棒を手にするよう、命じました。
2人目の黒人が私を殴り始め、私は足をばたつかせ始めました。するとハイウェイパトロールの隊員は先ほど私を殴った1人目の黒人に私の足の上に座るよう命じました。足を動かせないようにするためです。私が叫び声を上げ始めると白人の男が一人立ち上がり、私の頭を殴り、黙れと言いました。
白人の男が一人、私のドレスがめくりあげました。歩いてきてドレスを引っ張りあげたのです。私がドレスを元に戻そうとすると、この男がドレスをまためくり上げました。
メドガー・エバースが暗殺されたとき、私は留置所の中にいました。
投票者登録を望み、1級市民になろうとしたために、こうしたことすべてが起こりました。いま自由民主党に席を与えないというのなら、私はアメリカにこうたずねます。これが、自由の地で勇者の故郷、アメリカなのか、毎日のように脅迫されるため電話の受話器を外さなければ眠りにつけないこの国、人並みの人間として生きたいと望んだためにそんな扱いを受けるアメリカとは?
ご静聴、ありがとうございました。.
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