2012年3月21日水曜日

追悼:フレッド・L・シャトルズワース師(3/18/1922 - 10/5/2011)

「米国のヨハネスバーグ」と呼ばれた激しい人種差別はびこるアラバマ州バーミングハムの牧師としてフレッド・L・シャトルズワース師は、公民権運動を自らも闘い、また闘う人々を助けた。1961年に「フリーダムライダーズ」の第1陣が近くのアニストンで暴徒の襲撃を受けた時には、ショットガンで武装した人々を率いて、救援にかけつけた。


「非暴力を信奉はしているが、まずは仲間を取り戻さねば」 こんな時には、あくまでも現実的なのだった。人種平等のための闘いという夢をかかげながら彼は現実を知っていた。迷うキング牧師のことを「マーティンは、時々、遅い。遅すぎるんだよ。考えこんで悩んでしまう。やらなきゃならない潮時ってものがあるんだよ」と叱咤激励することもあった。フリーダムライダーズの若者たちが非暴力を貫けたのも、シャトルズワース師のような人が脇を固めていてくれたから。201110月に逝去したシャトルズワース師の追悼記事を訳してみました。(訳:大竹秀子)
原文は、こちら


アラバマ州バーミングハム. (AP) — フレッド・L・シャトルズワース師が、亡くなった。公民権運動の闘いで爆弾の的になり、ぼこぼこに殴られ、何度も逮捕され、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア師にその勇気とエネルギーを称えられた人物だ。享年、89歳。

プリンストン・バプティスト医療センターのスポークスウーマンのジェニファー・ドットによると、シャトルズワース師はバーミングハムの同病院で(2011年)105日に逝去した。

シャトルズワースはトラックの運転手をしながら夜間、宗教を学び、1953年にアラバマ州バーミングハムのベセル・バプティスト教会の牧師になり、すぐさま人種平等を求める闘いのこわもての指導者になった。


「うちの教会は皆のたまり場だった。私は運動を組立て、挑戦した。バーミングハムは、人種隔離の要塞だった。皆が行進を求めていた」とかつてシャトルズワース師は語った。

1963年に出版された著書"Why We Can't Wait" 『我々は何故待てないのか』)の中で、キング師は、シャトルズワース氏を「我が国で最も勇敢な自由の闘士の一人。筋金入りで活力あふれた不屈の人」として描いている。

シャトルズワース師は、1956年の爆弾攻撃も、1957年の抗議運動中の攻撃も、1963年にバーミングハム警察当局が消化ホースでデモ隊を直撃したときも、さらには無数の逮捕をも生き延びた。

「刑務所に放り込まれた回数は、30回か40回。でも喧嘩したわけでも、盗みや麻薬のせいでもないんですよ。良いことをして、違いを生もうとして刑務所に行ったんです」とシャトルズワース師は、1997年に小学校の生徒たちに向かって語った。1961年にアラバマからシンシナティに引っ越し、その後、約47年間ほど、そこで牧師を続けたが、その間にも頻繁にアラバマを訪れ、活動を続けた。2008年2月に軽い脳卒中の発作を起こした後、バーミングハムに戻った。同年夏、かつて人種差別が蔓延していた同市は、シャトルズワース氏を称える4日間に渡るイベントを行い、市内の空港に彼の名をつけ、バーミングハム公民権研究所前には彼の彫像が建てられた。

200811月にシャトルズワース師は、バラク・オバマ上院議員が米国初のアフリカ系アメリカ人大統領に選出されたのを病院のベッドで目撃した。その1年前に、オバマは、投票権を求めるセルマからモンゴメリーまでの行進を記念したイベントで、シャトルズワース師の車椅子を押し、セルマのエドモンド・ペタス橋を渡った。

1960年代初めに、シャトルズワース師は、キング師をバーミングハムに呼び戻した。1963年春に、子供たちもまじった黒人抗議者たちに向けて仕掛けられた警察犬と消防ホースによる攻撃はテレビのニュースに映され、米国のディープサウスにおける人種的敵意の深さを全国にまざまざと見せつけることになった。.

. 「我々が到着する前から、彼はバーミングハムで死の顎に向かって行進していました」と、当時のキング師の側近で、後にアトランタ市長や国連大使になったアンドリュー・ヤングは、シャトルズワース師の訃報を聞いてコメントした。

シャトルズワース師の恐れを知らぬ態度に動かされて、キング師は平等への闘いのためにバーミングハムにも赴こうと決意したとヤングは述べた。

「バーミングハムと対戦する力を我々はもっていないのではないかと懸念していたのです。でも、神は我々よりも良い考えをお持ちでした。フレッドがバーミングハムに来るよう我々を招待したという言い方は、あたっていません。彼は、絶対に来いと我々に命じたのです」

悪名高い人種差別主義者だった、バーミングハム師の警察・消防署長ビル・コナーに触れ、シャトルズワースは、仲間たちにこう語ったと言う。「今夜、ここで我々はビル・コナーの親爺さんに言ってやろうじゃないか。我々は行進する。権利を手に入れるまで停まらないと」

19635月にニューヨークタイムズ紙が掲載したシャトルズワース師のプロフィールによると、コナーは、消防ホースによる襲撃でシャトルズワース師が重傷を負った時、次のように語ったとされる。 「残念、しくじった。 霊柩車に乗せてやりたかったのに」

公民権運動のパイオニオとして同僚にあたるジョセフ・ロワリー師は、シャトルズワースは勇敢で、確固たる決意の持ち主だったと述べた。

「神は、この国の真に否定的な力の体現者としてブル・コナーをお作りになった。だが、神はまた、フレッド・シャトルズワースをお作りになることも忘れなかった」と、5日、ロワリーは語った。

キング師は国際的な名声を得たが、シャトルズワース師が、アラバマ州外で知られることはあまりなかった。だが彼は、1963年に4人の黒人の子供が殺害されたバーミングハムの教会爆破事件を題材にした1997年作のスパイク・リー監督のドキュメンタリー映画 "4 Little Girls" (4リトル・ガールズ)では、主要な登場人物になった。

また、2002年にピュリッツァ賞を受賞したダイアン・マクホーター著 "Carry Me Home: Birmingham, Alabama: The Climactic Battle of the Civil Rights Revolution" 『故郷に連れて帰ってアラバマ州バーミングハム公民権革命の決戦』でも、注目を浴びた。

シャトルズワースは1922318日、モンゴメリーで生まれ、バーミングハムで育った。

子供の頃には、牧師か医者になるのが夢だったが、1943年までには、神職につこうと決意していた。昼間はトラックの運転手とセメント工として働きながら、夜間、神学のコースを取り始め、1944年に説教の認証書を得、1948年には正式に聖職者として認められた。

1954年、当時まだモンゴメリーの牧師だったキングはバーミングハムに来て説教を行った際、ベセル・バプティスト教会にたちよりシャトルズワースに合うよう求められた。シャトルズワースは、キング師の主要な側近になったラルフ・アバーナシー師とすでに知りあいだった。二人は、後にセルマ大学と改名したアラバマ州立大学で同窓生だったからだ。

モンゴメリーでは、1955年後半にローザ・パークスが人種差別が行われていた市バスで座席を白人乗客に譲ることを拒否したことからバス・ボイコットが始まり、キング師が指導者となったこの抗議は、公民権運動に新しい息吹を与えた。

19561月、抗議集会に出席中だったキング師のモンゴメリーの家に爆弾が投げ込まれた。それから11ヶ月後の1956年のクリスマスの夜に、ベセル・バプティストの牧師館で睡眠中だったシャトルズワースの寝室のすぐ外で16本のダイナマイトが爆発した。いずれの爆破でもけが人はでなかったが、ガラスや木の破片が、コート掛けに掛けられていたシャトルズワース師のコートや帽子につきささった。

その翌日、シャトルズワース師は、250人の参加者をひきつれバーミングハムのバスの人種隔離に対する抗議を行った。

1957年には、シャトルズワース師は、自分の2人の子供達を生徒全員が白人のバーミングハムの学校に入学させようとして、暴徒たちにたたきのめされた。

シンシナティでシャトルズワース師は、レベレーション・バプティスト教会を去り、1966年にグレータ・ニューライト・バプティスト教会の牧師になった。また、低所得者のマイホームの頭金支払いを支援する基金も創設した。2004年には、約3ヶ月間、南部キリスト教指導者会議(SCLC)の代表になった。もめごと続きだった同組織の理事会は、シャトルズワース師が長年の役員を解雇しようと試みた際、理由も告げずに彼を停職にした。シャトルズワース師は、理事会の組織管理はいちいち細かすぎるとし、辞職した。

2006年、シャトルズワース師は84歳でグレーター・ニューライトの牧師職を辞した。最後の説教で、師は、「我々にできる最善のことは、神の下僕になることです。起ち上がって、ほかの人たちのために尽くすことは善きことです」と述べた。

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