2019年5月28日火曜日

ラッパーで元米海兵隊員マイルス・メガサイフ 『命どぅ宝』沖縄への想い




1995年には、キャンプ・シュワブにいた。少女が・・」と言ったまま、マイルスはうなだれ、次のことばを口にすることができなかった。

マイルス・メガサイフ、44歳。ラッパー。元米海兵隊員。17歳で軍に志願し、キューバのグアンタナモ基地を経て、沖縄に送られた。9.11はまだ起きず、当時、アメリカはボスニアで空爆などを行っていたが、マイルスは前線に派遣されることはなかった。


ハワイに駐屯し、やはり戦争に送られることのないまま、反戦・平和にめざめ、良心的兵役拒否を主張してみごと成功した別の元兵士と話したことがある。子どもの頃に9.11を体験し、国を守らねば、社会の役に立たねばと海兵隊に志願し、若くして士官として部下を育てる責任も負った真摯な若者だった。

その彼が、言っていた。戦争を体験してきた兵士はもちろん、戦場に行かない兵士も心が傷つくのだと。

過酷な訓練が毎日、続く。いったい何のため?なんの役にも立たないのに。

たぶん、当時のマイルスたちもきっとそんな環境にいた。浴びるように酒を飲み、仲間うちで喧嘩ばかり。沖縄の人はやさしかったし、いい島だと思ったけれど、基地の外に知り合いはほとんどなく、せっかくのオフの時間も、いったいどこにいって何をしたらよいのか、わからない。いきおい、基地相手の店に決まった顔でいりびたるしかない。

島民を守るために海兵隊がいるのではないことは、すぐに気づいたけれど、敵意にみちた危険な中国や北朝鮮から祖国を守っているのだといういまにして思えば、いい加減なヨタ話を当時は、すっかり信じていた。

同じキャンプの兵士2名が加担していた小学生の女の子のレイプ事件について、軍は部隊の兵士に語ろうとせず、情報は沖縄県民基地労働者などを通して口コミでしった。基地前での市民の抗議行動が激しさを増したが、軍の説明は、「あの連中は、金をもらって騒いでいるだけ」とか「中国人」「不穏分子」つまり、気にするな、相手にするな。とるにたらない奴らだ、という扱いだった。
アメリカに戻ってきてから、マイルスは荒れた。除隊後、何度か逮捕されたり、ホームレスも経験した。まともな暮らしに戻れるまで5年かかった。大学に入り、結婚し、子どもが生まれ、その頃には、兵役時代からやっていたラップミュージックで平和のために歌うと心に決めていた。

ベテランズ・フォー・ピースとの出会いがあり、そのメンバーと一緒に『命どぅ宝』という曲をもって沖縄に行き、キャンプ・シュワブ前で、中の兵士たちに呼びかけた。そして、辺野古基地建設の資材を搬入しようとするトラックの下のもぐりこみ、アクセルを羽交い締めにして逮捕された。

411日、ブルックリンでマイルスの話を聞いたとき、彼は『命どぅ宝』やほかの歌を演奏しながら、アメリカの各地をひとり車でツアー中だった。数日間の滞在の中で、ハーレムの学校を訪れ、学校にやって来る軍のリクルーターたちの甘い話にのっちゃだめだと子どもたちに軍の実態を説いた。

子どもの頃からGIジョーフィギュアで遊んでいたというマイルス。兵隊ごっこが大好きなアメリカの典型的な男の子だったらしいけれど、ハイスクールの途中で軍への志願を申し出た背景には、ニューヨークから移り住んで初めて深刻に体験した南部社会のいまなお消えない人種差別に嫌気が差したという面も大きかったらしい。

社会や軍の抱える負との闘いで剥き出しにしてしまった自分の心の暗黒をラップアルバムに託していやしたマイルスは、そのいやしを伝え、『命どぅ宝』をラップ好きの世代に説き続けている。
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インタビューの書き起こしは、以下で。



――16歳で海兵隊に志願した?

17歳で海兵隊に志願した

――志願に年齢制限はない?

18歳 契約書に母の署名を
もらったのが17歳の時

新兵訓練キャンプで採用が決まる キャンプには
18歳以上しか参加できない

――18歳になるまで待った?

サマースクールに行ったので
ブートキャンプ参加は少し後

1992年11月にブートキャンプに行った

――先日 コミュニティカレッジ前でお試し訓練キャンプ
参加をよびかけてました

甘いことばで誘うんだよ リクルーターは近所で最高の
車に乗ってる 皆が憧れる車さ

レストランでおごってくれるし ものも買ってくれる

そうやって心をつかむんだ

――リクルーターとの出会いが 志願のきっかけ?

いや 子供の頃から
母が買ってくれたGIジョーで遊んでた

13 歳の時『ターミネーター』を見て兵士募集センターに
行き 「I'll be back」って言ったんだ

武闘イメージ大好き少年だったんだよ

――ブルックリンで育って その後お母さんと
ジョージア州に移った?

16歳になる頃に
ジョージア州に引っ越した

母が電話帳に載せる広告取りの
仕事を見つけたんだ

電話帳はその後 無くなったけど
別の広告営業の仕事につながった

――ジョージアに移った影響は 大きかった?

悪い意味で いいことなかった

成績ががたんと落ちた ハイスクールに
入ったころは かなりの優等生

入学してしばらくはAとBばっかりだったのに
卒業の時にはDだらけ

――勉強に興味を無くした?

学校の仕組みがレイシスト
人種差別を初めて体験したんだ

かわすことが出来なかった
慣れてなかったんだと思う

――入隊後 すぐ沖縄に?

最初の任地はキューバのグアンタナモ

1993年1月に訓練キャンプを卒業

夏には キューバにいた

キューバに1年駐留後 アメリカに戻り
1994年に沖縄に送られた

沖縄には1995年までいた

帰国後は カリフォルニアの山で訓練

その後ドラッグテストでひっかかり
1ヶ月間軍刑務所入り

その後3か月間 軍にいた

――軍での任務は?

砲兵の訓練をうけた
直径8センチくらいの迫撃砲

――身体が大きいから選ばれた?

いや 自分で選んだ

軍の適正検査で成績がよかったから

迫撃砲は 3人1組で操作する

――グアンタナモでは 収容所で勤務?

イラク戦争前であの刑務所も
拷問も まだ無い時代だ

僕らはキューバ人やハイチ人を捕まえて
苦しめていた

メタルの屋根の小屋に拘置するんだ 
夏はめちゃくちゃ暑い

ハイチ人を収容する小屋は さらにひどかった

ハイチ人への亡命プログラムはなかった
グアンタナモから送還するんだ

――船で逃げてくる人たちを捕えて送還する?

ひどいよね 恥だよ そんなことするの

キューバ人への尋問も厳しかった

スパイじゃないかと疑うんだ

僕自身は亡命・安全保障がらみの
仕事はしなかったけど

基地はふたつにわかれていて
僕がいたのは飛行場側

フェンスの警備をし 野戦訓練を受けた

訓練は機関銃だけ
迫撃砲は被害が大きすぎるから使わない

――当時 戦争はなかった?

砂漠の嵐作戦と湾岸戦争との間

アフガニスタン戦争は2001年からだし

イラクのクウェート侵攻は入隊前

ボスニアで戦争してたけど
僕は送られなかった

沖縄かキューバだったんだ

沖縄をエンジョイした
いい所だった

焼酎を楽しんだ 

蛇かなんかはいっている いまじゃもう飲めないね

沖縄の文化も食べ物も大好きだった

――基地の外で楽しむチャンスは?

どこに行けばいいのかわからない 
でも 僕には超クールな友達がいた

彼には沖縄にガールフレンドがいたから
僕は他のブラザーより恵まれていた

ヒップホップのクラブによく行った

僕ら以外の客はすべて沖縄人か日本人
ツテがあるから行けた 

パフォーマーは日米両方

本来はGI向けのクラブ

でも来てたのは 沖縄の若者ばっかり

行ったのは そこだけ あとは基地相手の通り

大きな通りが2本 人気のクラブがあった

クラブにいりびたって ケンカ騒ぎ

――仲間同士? 沖縄の人と?

GI同士。沖縄の人ともめたりはなかった

若いし 酔っ払ってたし 腹を立てていたから

その頃 すでにラッパーだった

沖縄に行く前にラップの師匠に出会っていた

僕のヒップホップの先生だ

ヒップホップの精神 表現法を教えてくれた

でもその頃は 正しい使い方に気づいていなかった

――あなたを変えた きっかけは?

ある朝 突然 目覚めた
ブタ箱入りはもうウンザリだった

釈放されたばかり
郡刑務所に週末入ってた

オレンジ色の囚人服を着せられて

南部の司法制度では
軽微な罪でも投獄される

僕が育った東海岸とは 違うんだ

帰還後しばらくはめちゃくちゃ
目覚めまで5年かかった

自分の名義で部屋を借りられない時期が
かなり続いた

釈放されても友達のお母さんの家しか
行くあてがなかった

アトランタでは
ホームレスだった

そんなことの繰り返し

目覚めは2001年 除隊は1996年だった

2002年にジョージア州立大学に入学

2003 年に結婚した 出会いから8カ月後に

すべてがいい方向に向いた 太極拳やヨガも始めた

ヨガも始めた 太極拳やってみせますね


――1995年に キャンプ・シュワブにいた?

いました 少女が・・・・・

外出禁止命令が出て

抗議行動を覚えている

――軍は 事件を知らせた?

説明はなかった 
町で何かが起きたというだけ

事件は口コミで伝わった

その時 感じたのは・・・

悪い連中にまじってたけど
自分では売春もしなかった

――そうだったんだ!

海兵隊員であることに 良心の呵責を感じた

沖縄への駐留に
沖縄の人々は穏和なのに

僕らは暴力的で若く愚かで傲慢で
好き勝手で

ベテランズ・フォー・ピースから
沖縄に行かないかと誘われた

初めはピンとこなかったけど 段々現実化した

情報をたくさんもらい
資料をどっさり読んだ

音楽で声をあげることが
役立つと思うようになった

――駐留していた時 居心地が悪かった?

それはなかった

間違っているとうすうす感じたけれど
口に出さなかった

女の人に手を出さなかったことが
沖縄への僕なりの連帯 けじめだったのかも

――抗議活動についての 軍の説明は?

あいつらは金をもらってるとか 中国人だとか
言いたい放題

人々を守るためにいるわけではないと
すぐに気づいた

でも 北朝鮮と中国からの防衛という嘘を
僕らの多くが信じていた

抗議活動は当時もあった

僕は若かったし 政治的な教育も受けてなかった

僕らに出ていってほしいという抗議だとは
わかっていなかった

心底からの願いだということも

レイプ事件がきっかけの抗議だということすらも

正直言って 何もわかってなかった

真実から目をふさぎ 
偉そうに していた

感謝の気持ちもなく 短気で性急で

――ベテランズ・フォー・ピースとの出会いは?

息子が生まれる前から 
ヒップホップで平和を歌い始めていた

今夜のショーも聴衆はヒップホップ・ファン

息子が生まれた時 CIVILiAMを書いた

僕にとってセラピーになったアルバムだ
僕自身の心に潜む「悪魔」と向き合った

抱えていた怖れを みつめさせてくれた

書きたい気持ちがわきあがり 
アルバム化も早かった

できあがったアルバムを VFPに寄贈した

平和へのアクションが
そこから始まった

アクションと音楽が結びついた

VFPの全国大会に行き できたての曲を
披露して喜ばれた

ヒューマンライツ・レーベルを作ったり 
誰でも演奏できるイベントを開いたりもしてきた

自分や他の人のコンサートも手がけている

音楽で心を奮いたたせ
より良い状況に向けて活動している

人間らしさの必要性 それを音楽で伝えたい



――『命どぅ宝』の曲は どうやってできたのですか?

ジェームズ・デイビッドがビートをやってくれた

アメリカのVFPとVFP琉球・沖縄で
スエットシャツを作ることになった




「命どぅ宝」をどう訳すか
皆が真剣だった 

で 自分でも調べて
その大切さに気づいた

すごい曲を作れそうな気がした

沖縄に行く前 確か10月に書いた

詩はあっという間に書けた

一緒に行ったウィルがビデオを撮ろうと
提案し沖縄で撮影した

VFPの沖縄でのアクションのシーンも
映像に入れた

留置場入りしてて
参加できなかったアクションもある

キャンプ・シュワブのゲート前で
逮捕された

建設資材を運ぶトラップを
止めようとしたんだ

トラックの下に潜り込んでアクセルをつかんだ 
危うい奴だと思われたんだろうね

もう行かなくちゃ 

――ありがとうございました!

***マイルスの情報ページ:https://www.megaciph.com/