2016年9月1日木曜日

早すぎたヒーロー 天使の顔をしたトラブルメーカー バイヤード・ラスティン

公民権運動の3大美男子の一人、バイヤード・ラスティン。人を引きつけてやまない魅力と揺るぎない信念、差別と不正を許せない熱烈な平和・反戦運動家にして公民権活動家。だが、ラスティンは影を負っていた。アウトサイダーの道を選んだのは、オープンなゲイで元コミュニストという存在が、当時の運動にとって抜き差しならぬリスクを意味したからだ。早すぎたヒーロー、キング牧師にガンジーの非暴力の闘いを伝授し、公民権運動に絶大な寄与をした「天使の顔をしたトラブルメーカー」バイヤード・ラスティンとは?(大竹秀子)

ワシントン大行進。「私には夢がある」の演説を行うマーティン・ルーサー・キング・ジュニアのすぐ背後にラスティンの姿が。


2016年8月23日火曜日

ファニー・ルー・ヘイマー 大統領を震え上がらせた真実の声

52年前、ファニー・ルー・ヘイマーが民主党全国大会で演説すると知ったとき、時の米大統領リンドン・ジョンソンは、突然、無意味な記者会見をホワイトハウスで開くと発表した。ヘイマーの声が全米のテレビに流れ、人々の心に届くことを恐れたからだ。大統領を、それほどまでに恐れさせた演説とは?(大竹秀子)

ファニー・ルー・ヘイマー(1917-1977)が黒人にも投票権があると知ったのは、1962年、44歳の時だった。ミシシッピー州の20人の子をもつ小作人(シェアクロッパー)の家に生まれ、綿花をつみとうもろこしを収穫して育ったファニー。結婚した相手も同じ地主の下で働く小作人だった。そんな彼女が激動する政治の渦の中心に立つことになったのは、60年代初期のある日、学生たちが作った公民権運動の組織SNCCの集会をたまたまのぞいたことからだった。アメリカの有権者が投票するには、事前登録が必要だ。当時、黒人差別が特に激しかった南部でSNCCはさまざまな妨害にあいながらも黒人たちの投票登録運動を進めていた。投票の権利を知り、自由を求めて投票権を得ようとしたために、ファニーはさまざまな迫害にさらされた。夫もろとも、即刻、地主から解雇され、警察に留置され一生涯、腎臓に後遺症が残る暴力行為を受けた。だが、ファニーは、確信していた。ただ待っているだけでは自由は、訪れない。自由をもとめ「うんざりする目にあわされ疲れ果てることに、うんざりし疲れ果てた」という名言を残したファニーは、1964年、党代議員の全員が白人だったミシシッピー州から黒人の党「ミシシッピー自由民主党(MFDP)」代表として民主党全国大会に赴き、黒人有権者の声を政治に反映させようと試みた。時の大統領ジョンソンは、公民権運動に大きく貢献した人物だったが、差別主義者も多い党の南部票を失うことを恐れ、党大会での黒人パワーを恐れた。結局、民主党全国大会に黒人代表の参加が実現したのは、次の1968年の大統領選からだったが、民主党全国大会へのMFDPの参加資格を問う委員会で行われたヘイマーの演説は、アメリカの民主主義の歴史に残るものになりました。

2016年1月15日金曜日

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア:ノーベル賞受賞直前の演説:運動の力 死をも覚悟する非暴力 マンデラへの連帯を語る

115日はマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの誕生日。1964年、ノーベル平和賞受賞直前、ロンドンで行った講演(Democracy Now!2015119日の番組から)を訳してみました。(by 大竹秀子)


このとき、キングは35歳。1955年に26歳の若さでモンゴメリーのバスボイコット運動の中心的指導者となり全米に名を知られるようになってからづすでに10年近くがたっていました。演説でキングは、「運動は本当に成果があるのか」という人々の胸をよぎる痛切な問いに答えます。ヤワと思われがちの「非暴力」ですが、万一、命を落とすはめになっても命をかけるだけのものをもてたことをかみしめようと覚悟を語っています。また、イエスが「汝の敵を愛せ」とはいったけれど、「敵を好きになれ」とはいわなかったのは、ありがたい。どうしたって好きになるのが無理な相手はいる。でもここでいう「愛」はそんじょそこらの愛とは違うんだともいっています。

ロンドンでの講演で外国人が相手だったためもあり、アメリカの黒人の歴史をかいつまんで説明してくれているのはありがたいし、当時、投獄の身だったネルソン・マンデラなどを指導者とする南アフリカの反アパルトヘイト運動に敬意を表し、不買運動・投資撤退運動を通しての国際的連帯を強く呼びかけているのも特徴です。また、平和と民主主義を求めるならば、移民たちを温かく迎え、同じ人間としてわけへだてなく扱え、社会の中に経済的・心理的に疎外された層を生み出すことは社会の安全を大きな危険にさらすと説いていることもいまに通じる慧眼です。

公民権運動で世界的に有名なキングですが、反戦・反貧困の闘士でもありました。1967年には反戦演説「ベトナムを越えて・沈黙を守るとき」をおこなって、ついていけないそれまでの支持者から総すかんを食い、この演説から3年もたたぬ19684月に暗殺されました。

世紀の演説上手だったキング。Democracy Now!の番組を通して、その演説を声でも聴けますし、番組の休憩時間に、”King of Love Is Dead”を歌うニーナ・シモンのクリップも使われていますので、合わせてお楽しみください。(動画と英語スクリプトはここから

2016年1月9日土曜日

アミリ・バラカ (1934-2014): 革命的政治、ブラックカルチャーを形作った詩人-劇作家-活動家

ことばを銃弾にと説いた詩人アミリ・バラカの追悼番組(democracynow.org)の翻訳です。動画にはバラカのパワフルなパフォーマンスも登場します。(大竹秀子)
2014年1月10日にオンエアされたDemocracy! Nowの追悼番組


19日はアミリ・バラカの命日です。アミリ・バラカ(1934107日‐201419日)。ニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事は、こんな風な文章で始まっています。「アミリ・バラカ。憤怒の詩人・劇作家。長年にわたり、アメリカでの黒人体験をまざまざと表現し、白熱の輝きを賞賛されるとともに、一部では扇動者とのそしりを得た」。1960年代と70年代には、バラカはブラックパワー運動を芸術の領域で体現した「ブラック・アーツ」運動の先鋒に立ちました。代表作といわれる『ブルースピープル』(1963)(リロイ・ジョーンズ名で執筆)はジャズの登場からビバップの誕生までの流れをアメリカの黒人史とのつむぎあいの視点でとらえた評論です。また戯曲『ダッチマン』(1964)は、レイシズムの恐怖を生々しく感じさせ、高い評価を得ました。

60年を超える政治的・社会的・芸術的な領域での活躍の中で、バラカの立ち居地は次々に変わります。「バラカ氏は初期のキャリアをビートニクとして、中期にはブラック・ナショナリストとして、晩年はマルキストとして過ごした。その立ち居地の転換は、時代の変化を映す鏡であるとも、本人の持ち前の移り気な気性を正確に表すバロメーターであるともみられた」と、ニューヨーク・タイムズ紙は、とげを感じさせる書き方をしています。「60年間にわたるバラカ氏の著作は、反ユダヤ、女嫌い、同性愛嫌悪、レイシスト、孤立主義、危険な過激派だとして、繰り返し糾弾された」のです。

「しかし」とタイムズ紙は追悼記事は続きます。「彼をチャンピオンと見る人も中傷する人も、彼がその最高の著作においてパワフルな発言者であり、魅惑的な演説者であり、国際的な文学シーンで、彼を愛そうが憎もうが、無視することはまず不可能な不朽の存在だと認めている」。


以下、「デモクラシー・ナウ!」が2014110日にオンエアした追悼番組(英語原文のトランスクリプトはここ)を日本語に訳してみました。バラカの詩は、英語のまま遺してあります(詩の訳は難しすぎる!)。ただ、弁解でなくいえることは、バラカの詩は、目で見て耳で聴いてこそ、真価が輝きます。番組に織り込まれた迫力満点の朗読パフォーマンスをリンクした映像で満喫してください。