1971 年ニューヨーク州のアッティカ刑務所で起きた暴動は、「19世紀末に行われたインディアンの虐殺を除き、この4日間の刑務所暴動を終息させた州警察による強襲は、南北戦争以来アメリカ人の間で生じた最も血塗られた1日であった」と言わしめる惨状で終わった。それから、40年、ブラックアジェンダ・ラジオのブルース・ディクソンの解説です。音声は、ここから。(翻訳:大竹秀子)
40年前の今週[9月9日の週]、ニューヨーク州北部のアッティカ刑務所の囚人たちは自らの命と運命を危険にさらした。1200人収容を意図して設計された刑務所には、当時、その2倍近くが押し込まれ、囚人達は、シャワーは週1回、月1ロールのトイレットペーパーに制限されていた。何の理由もなく突然殴られたし、ムスリムへの宗教的な差別がはびこっていた。
彼らの要求は人間なら誰にだって当然な平凡なものだった。人並みで健康な食べ物、食事に関する宗教の決まりを守れること。州北部の寒い冬のための暖かい衣服と寝具、ねずみが走り回る場所でのまじめなネズミ対策。しゃばに出た時に以前とは違う生き方ができるようにするため、本と自己改善・教育プログラムを要求した。医療、そして仮釈放と刑務所管理の決定に関しての透明性と公正、刑務所内での人種的・宗教的差別の撤廃、刑務所長の交代も求めた。
ブラックパンサー党の議長ボビー・シールとネイション・オブ・イスラムのルイス・ファラカンの立ち会いも要求した。全米各地から、クラック運動の弁護士たちが、ニューヨーク州北部に飛んできた。1971年、全世界がみまもった。囚人たちは、4日間にわたり、ニューヨーク州知事ネルソン・ロックフェラーと交渉したが、1972年に共和党から大統領候補として出馬をねらっていた知事は、対話を中止し、刑務所に殺人的な攻撃をしかけた。
刑務官とニューヨーク州警察は刑務所に砲火の雨を浴びせ、刑務官と民間の刑務所従業員10人を含め、少なくとも39人が殺害された。刑務所を取り戻し、生き残った囚人を殴打する残虐な報復の乱ちき騒ぎが行なわれた後、生き残った囚人たちは数十件の殺人容疑で告発された。結局、陪審はすべての囚人の殺人嫌疑に無罪判決を出し、警官も州の役人も起訴されなかったものの、州は生き残った囚人、殺された刑務官とその遺族に数千万ドルの見舞金を支払った。
それから40年。多くが変わったともいえるし、ほとんど何も変わってないとも言える。米国の刑務所内でムスリムはいまもひどい差別を受けている。全国いたるところで囚人達はいまも人並の食事と医療を与えられていないし、刑務所行政の不透明さは相変わらずで、刑務官による行き当たりばったりの暴力行為は今もはびこっている。アブグレイブでの拷問で有罪判決を受けた下っ端の伍長は、軍にはいる前はペンシルバニア州刑務所の看守だった。
一方、アッティカの日々以来、米国の刑務所人口は6倍以上にふくらんだ。我が国は世界一の刑務所国家になったが、囚人の7割は、人口の4分の1でしかない黒人とラティーノだ。低収入層の黒人にとって刑務所入りの運命はより大きくなった。大学出の黒人男性が今日、投獄される可能性は、1970年と比べると3分の1に減ったが、高校をドロップアウトした黒人男性が刑務所にはいる率は、1970年のドロップアウト者の7倍にも上っている。
我々はアッティカから長い道のりをたどってきたが、そのすべてが我々の望み通りだったわけではない。アッティカが残した教訓でいまも生きているのは、チャンスはごく少ないということだ。現在、そして過去の囚人、1971年に比べて現在では膨大に数が膨らんだ囚人たちが自分たちの運命を危険にさらし、自分たちは人間であり獣ではないと宣言し、政治的な闘いを組織してコミュニティを作り、自分たちの目が黒いうちに刑務所の状態に反撃を始めるまでは。
ブラックアジェンダ・ラジオ、ブルース・ディクソンでした。
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