2016年1月15日金曜日

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア:ノーベル賞受賞直前の演説:運動の力 死をも覚悟する非暴力 マンデラへの連帯を語る

115日はマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの誕生日。1964年、ノーベル平和賞受賞直前、ロンドンで行った講演(Democracy Now!2015119日の番組から)を訳してみました。(by 大竹秀子)


このとき、キングは35歳。1955年に26歳の若さでモンゴメリーのバスボイコット運動の中心的指導者となり全米に名を知られるようになってからづすでに10年近くがたっていました。演説でキングは、「運動は本当に成果があるのか」という人々の胸をよぎる痛切な問いに答えます。ヤワと思われがちの「非暴力」ですが、万一、命を落とすはめになっても命をかけるだけのものをもてたことをかみしめようと覚悟を語っています。また、イエスが「汝の敵を愛せ」とはいったけれど、「敵を好きになれ」とはいわなかったのは、ありがたい。どうしたって好きになるのが無理な相手はいる。でもここでいう「愛」はそんじょそこらの愛とは違うんだともいっています。

ロンドンでの講演で外国人が相手だったためもあり、アメリカの黒人の歴史をかいつまんで説明してくれているのはありがたいし、当時、投獄の身だったネルソン・マンデラなどを指導者とする南アフリカの反アパルトヘイト運動に敬意を表し、不買運動・投資撤退運動を通しての国際的連帯を強く呼びかけているのも特徴です。また、平和と民主主義を求めるならば、移民たちを温かく迎え、同じ人間としてわけへだてなく扱え、社会の中に経済的・心理的に疎外された層を生み出すことは社会の安全を大きな危険にさらすと説いていることもいまに通じる慧眼です。

公民権運動で世界的に有名なキングですが、反戦・反貧困の闘士でもありました。1967年には反戦演説「ベトナムを越えて・沈黙を守るとき」をおこなって、ついていけないそれまでの支持者から総すかんを食い、この演説から3年もたたぬ19684月に暗殺されました。

世紀の演説上手だったキング。Democracy Now!の番組を通して、その演説を声でも聴けますし、番組の休憩時間に、”King of Love Is Dead”を歌うニーナ・シモンのクリップも使われていますので、合わせてお楽しみください。(動画と英語スクリプトはここから


エイミー・グッドマン: 本日は、マーティン・ルーサー・キング師を称えるアメリカの祝日です。1929115日に生まれ、196844日にテネシー州メンフィスのロレイン・モテルで暗殺されました。39歳になったばかりでした。キングは、主に公民権運動のリーダーとして記憶されていますが、貧者の大義を擁し、経済的な正義の問題に対処するために「貧者のキャンペーン(Poor People’s Campaign)」も組織しました。また、アメリカの外交政策とベトナム戦争を厳しく批判しました。

1964年、キングは、最年少でノーベル平和賞を受賞しました。ノルウェイのオスロでの授賞式の数日前に彼はロンドンに赴き、1964127日に、「クリスチャン・アクション(Christian Action)という団体が主催したイベントでアメリカでの公民権を求める闘いと南アフリカでの反アパルトヘイト運動について講演しました。パシフィカ・ラジオのヨーロッパ通信員だったサウル・バーンスタインが記録していた録音が最近、パシフィカ・ラジオ・アーカイブスの責任者ブライアン・デシャザーの手で発見されました。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの演説をお聴きください。


マーティン・ルーサー・キング・ジュニア: 本日は皆さんと、主にアメリカでの私たちの闘いについてお話ししたいと思います。ですが、着席する前に世界全体でのより大きな闘い、そして南アフリカでのより困難な闘いについて少し触れておきたいと思います。

我が国のいたるところで、そして世界のいたるところで、人々は痛切な問いを口にしています。どこに行っても、どんな記者会見でも必と言ってよいほど、よく聞かれる問いです。それは、人種的正義を手にしようとするアメリカでの闘いで私たちは本当に進歩しているのかという問いです。

そしてその問いに答えようとするたびに、私は一方で過度の悲観主義に陥りまいとしながら、もう一方で浅薄な楽観主義にもとらわれないようにしています。そして、一方では人種的正義を求める闘いにおいて、この2~3年間に意義ある多くの歩みがあったことを認めながらも、問題解決までにはまだまだ多くの課題があると認めることで、現実的な立ち居地と私が呼ぶものを実現し、発展させようとしています。

そして、この現実的な立ち居地を、私たちが今夜、共に考えるための基盤として、アメリカでの問題を考えたいと思います。私たちは、長い長い道をたどってきましたが、問題解決には、今後、進むべき長い長い道があるのです。

 黒人をモノとした最高裁の「ドレッド・スコット裁決」

 
ドレッド・スコット
キング:さて、まず私たちが長い長い道をたどってきたことに注目しましょう。そして、黒人自身が自分自身の中にある価値を再評価するまでに長い長い道をたどってきたことも、ここで申し上げておきたいと思います。

このことを説明するには、歴史を少したどる必要があります。

初めての黒人奴隷がアメリカの地に上陸したのは1619年のことでした。アフリカの大地からつれてこられたのです。1年後にプリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズとは異なり、彼らは自分の意思に反して連れて来られました。そして奴隷制を通して黒人は大変非人間的な扱いを受けました。ものとして利用され、人として尊敬されることはありませんでした。

アメリカ最高裁判所は、1857年に「ドレッド・スコット判決」と呼ばれる裁決を出しました。アメリカの最高裁が下したこの裁決は、当時の考え方を浮き彫りにし、その実態をかいまみせてくれます。つまり、黒人はアメリカ市民ではなく、所有者の命令に従う財産にすぎない、ということです。さらに、黒人は、白人が尊重しなければならない権利をもっていない、と言っています。これが、奴隷時代に主流の考え方でした。



奴隷制正当化のさまざまな試み


キング:奴隷制の隆盛と共に、制度を正当化する必要が出てきました。人間というものは、明らかな不正にもなんとかして正義の美しい衣をまとわせ、薄弱ではあっても合理化せずには、不正を行い続けることができないようなのです。

奴隷制の日々に起きたこともまさにそうでした。聖書を悪用して奴隷を正当化し、現状維持を堅固にした人たちがいました。教会の説教壇から、ノアがハムの子孫を呪ったことを理由に黒人は生来、劣っているのだと論じた人たちもいました。次に、使徒パウロの「しもべは主人に仕えるのが務めだ」という格言が合言葉になりました。

さらに、偉大な哲学者アリストテレスを読んでいたブラザーがいたらしい。ご存知のように、アリストテレスは現在の哲学でいう形式論理学の体系化に多大な貢献をした人です。形式論理学には、「三段論法」という仰々しい名で呼ばれるものがあり、それは、大前提、小前提、結論という形をとります。

そこでこのブラザーは、黒人の劣等性という論議をアリストテレスの三段論法の枠組みに当てはめようと決めました。すべての人間は神の似姿でかたちどられた—これが彼の大前提でした。次に小前提が来ます。誰もが知っているように、神は黒人ではない。ゆえに黒人は人間ではない。こんなたぐいの論法がまかり通っていたのです。

自分への信頼を奪われた黒人


キング:奴隷の状態、そして後には人種分離の状態で生きるうちに、大勢の黒人が自分自身への信頼を失いました。きっと自分たちは人間以下なんだと、大勢が感じるようになった。

私は、奴隷制の最大の悲劇、人種分離の最大の悲劇は、これだと思います。個人に肉体的影響ばかりでなく、心理的な影響が及びます。差別待遇をする人だけでなく、差別待遇される人の魂に傷をつけ、差別待遇をする人には誤った優越感を与え、差別待遇される人には誤った劣等感を残します。まさにこうしたことが、起きたのです。


その後、自動車の到来、2つの世界大戦による激変、大恐慌により、黒人の身にも変化が起き、移動が可能になるとともに必要にもなりました。農村地帯のプランテーションでの暮らしが都市の産業化された暮らしへと徐々に道を譲っていきました。

工業の成長や、労働者の組織化の進展、教育機会の拡大を通して経済的な暮らしも次第に上昇していきました。そして障害となっていた非識字が確実に減少していくことで、文化的な暮らしも次第に向上していきました。このような力が結びついたことで、アメリカの黒人は、自分自身を新たな目で見ることになりました。黒人大衆全体が、自らの再評価を始めたのです。


アフリカから尊厳を学ぶ

キング:こうしたことすべてに合わせて、他の動きも起きました。アメリカの黒人がその目と心をアフリカに向けたのです。アフリカの歴史を舞台に壮麗な独立のドラマが繰り広げられていることに気づいたのです。その進展に気づき、何が起きているのか、アフリカで自分のブラザーやシスターたちの身に何が起きているのか気づいたことで、アメリカの黒人は尊厳という新しい感覚、自尊心という新しい感覚を得たのです。

黒人は自分もいっぱしの存在だと感じるようになりました。宗教は、神がすべての子を愛し、すべての人間を自分の似姿に形づくったことを明らかにしました。人間の基本は、事細かなありようではなく、その根源、どんな髪だとか、肌の色などではなく、永遠の尊厳と価値なのだ、ということを。

こうしてアメリカの黒人は知らず知らずのうちに雄弁な詩人と共にこう叫ぶことができるようになりました。

「羊の毛のように縮れた髪、黒い肌も自然の主張を剥奪することはできない。肌は異なっても、優しい気持ちは黒人にも白人にも同じように宿る」だとか「私がマストに届くほど、あるいは海を手でわしづかみ出来るほど長身だったら、私の魂がものさしとなり、私の心が人の基準になる」と。

新しい尊厳の感覚と新たな自尊心を身につけた、新しい黒人が存在するようになりました。自由でいるために苦しみ、闘い、犠牲を払い、必要とあれば死をもいとわぬと決意した黒人です。ですから、我々が、1619年以来、長い長い道を進んできたのは明らかです。



公民権のフロンティア



キング:しかし、事実に忠実であろうとするならば、黒人が自分自身に内在する価値を再評価しただけではなく、国全体が公民権のフロンティアを拡張する長い長い道を進んできたことも述べる必要があります。

このことを明らかにする我が国での出来事に少しだけ、触れておきたいと思います。

50年前、いや25年前ですら、卑劣な暴徒の手で多数の黒人が残忍なリンチにあわずに1年がすぎることはまれでした。ありがたいことに、今日ではリンチはほとんど姿を消しました。

20世紀の初めまでさかのぼると、アメリカの南部で投票者登録をした黒人はほんのひとにぎりでした。1948年までにその数は約75万人にまで急増しました。1960年には、120万人になり、ほんの2~3週間に、我々が大統領選挙に赴いたときには、200万を超えていました。私たちは、南部で投票者登録をした200万人の黒人有権者と共に選挙に赴いたのです。これは、公民権運動で、私たちが懸命に働き、過去3年間に新たに80万人を超える黒人を登録ずみの投票者に追加することが出来たことを意味しています。私たちが大きく前進した証です。

次に経済的正義の問題に目を向けると、なすべきことはどっさりです。それでも、少なくともいくらかの前進はしたと言うことができます。今日、アメリカで雇用されている平均的な黒人賃金労働者の所得は、12年前の平均的黒人賃金労働者の所得の10倍以上です。そして、現在、黒人の国民所得は年に280億ドルあまりですが、これはアメリカの全輸出額を超えており、カナダの国家予算の額をしのいでいます。このことは、私たちがこの領域でも前進したことを明らかにしています。



人種分離を法的に正当化したプレッシー裁決

キング:しかし、おそらく他の何にもまして—おそらく皆さんは、このことについて英国でまた世界各地での報道ですでにお読みかと思いますが—私たちは人種分離制度が次第に衰退し、死に絶えつつあることに気づいています。

司法の面でいうと、人種分離の歴史は1896年に始まりました。大勢の人々は、人種分離はアメリカで長い長い間存在してきたと思い込んでいますが、実際にはそうではなく、我が国ではかなり最近、そこそこ過去60年間 ほどの現象なのです。司法で見るなら、プレッシー対ファーガソン判決がその始まりでした。この判決は、実質上、「分離すれど平等」な施設は存在可能だとし、「分離すれど平等」というドグマを国法にしました。

プレッシー教義の結果、何が起きたかは、誰でも知っています。「分離」がつねに厳格に執行される一方、「平等」が守られているかどうかは、気にもとめられませんでした。黒人は、搾取の深淵に突き落とされ、荒涼とした慢性的な不正を味合わされることになったのです。

その後、すばらしいことが起きました。我が国の最高裁判所が1954年に人種分離の法律的土台を検討し、その年の5月17日に違憲だと宣言したのです。プレッシー教義は排除されなければならない、施設の分離は本質的に不平等であり、人種を理由に子供を分離することはその子から法による平等な保護を奪うものである、としたのです。


1954年のこのきわめて重大な裁定は我が国全土の何百万人もの廃嫡された人々に大きな希望の灯をもたらしまし、この裁定以来、私たちは数多くの変革を目にするようになりました。



ケネディ ジョンソン両大統領の取り組みと公民権法の勝利




キング:その後、私たち全員に喜びをもたらす別の出来事も起きました。今年のことです。

昨年、アラバマ州バーミングハムでの闘いの後、いまは亡きケネディ大統領が、我が国が取り組むべき根本的な問題の存在を認めるようになりました。問題を懸念し即、実行が必要だと感じて、大統領は偉大な演説を行いました。

その数日前、いや実際にはその当日にアラバマ大学の人種統合が実施されることになったため、ウォレス知事が大学の扉の前に立ちふさがり統合を阻止しようとした、その日のことです。

ケネディ氏は、州兵を連邦化せざるをえませんでした。彼は国民の前に立ち、公民権の時代に我々が直面している問題は、単なる政治的な問題でも、経済的な問題でもなく、基本的にモラルの問題なのだと雄弁なことばで述べたのです。聖書と同じくらいに古く、憲法と同じくらいに現代的な問題なのです。我々が黒人のブラザーたちを、自分が扱われたいのと同じように扱うか否か、という問題です。



この偉大な演説の直後、ケネディ氏はさらに前進し、この偉大な国で歴代の大統領が推奨してきた中でも最も包括的な公民権法案を、我が国の議会に推奨しました。残念ながら、多くの年月の闘いで私たちが少し疲れていた時でした。我が国には、大声をあげたがる人たちがいます。皆さんはフィリバスター(議事妨害)についてお読みになったことがあるかもしれません。法案の分析をまひさせ、議事の動きをはばみ、ただ延々と時間を稼ぎ続けます。そうやって法案は死んだと言おうと試みました。



しかし、リンドン・ジョンソン大統領が動きました。下院議員と上院議員に呼びかけ、来る日も来る日も国の影響力のある人たちと会合し、法案は亡きケネディ大統領への賛辞というだけでなく、偉大なこの国への賛辞、さらにはアメリカの夢への献辞として成立させなければならないことを明確にしたのです。昨年のあの輝かしい日に法案は成立し、72日、ジョンソン氏が署名して、国法になりました。



こうして、現在、アメリカには公民権法があります。幸せなことにその法は南部全域でおおむね、実施されているとご報告できます。ミシシッピ州の地域社会ですら、驚くべきレベルで遵守されています。ミシシッピ州で正義を目にすることができるなら、事態は改善されているといえるのです。


グッドマン: 1964127日、ロンドンでのマーティン・ルーサー・キング師の演説です。休憩をはさんで続けます。
ニーナ・シモン"King of Love Is Dead"
グッドマン: デモクラシー・ナウ! democracynow.org、戦争と平和レポートのエイミー・グッドマンです。

本日のデモクラシー・ナウ!の独占番組では、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア本人の声による演説をお送りしています。

パシフィカ・ラジオ・アーカイブスで最近、発見された録音です。1964127日、ロンドンでの録音です。ノルウェイのオスロでノーベル平和賞を受賞する数日前でした。

進むべき長い長い道のり


キング: この夏、公民権のために働いていた人たちが3人、ミシシッピ州フィラデルフィアで惨殺されたことを私たちはけして忘れることができません。このできごとで明らかになったことは、この国に必要で、手にいれなければならないブラザーフッド(兄弟愛)を、私たちはまだ、手にしていないということです。まだ進むべき長い長い道があるのです。

さきほど、投票者登録のお話をし、ここ2~3年間に新たに登録ずみの投票者を80万人ほど増やすことができ、現在は200万人を超えているという事実をお伝えしました。明らかな進歩に聞こえたことと思います。確かに進歩の証しではあります。

だが、別の面もあります。アメリカの南部にはいまなお1000万人以上の黒人が住んでおり、アメリカ南部で投票できる年齢層の黒人は600万人にのぼります。しかし登録をすませたのは、200万人にすぎません。未登録の人がまだ400万人いるのです。

その理由は、彼らがアパシーだったり無関心だったりするためだけ—中にはそんな人も少しはいるでしょうが—ではなく、黒人に投票者登録させないよう、いまだにあらゆるタイプの狡猾な手段が使われているからです。

誰であれ合格するのがまず不可能な複雑な識字テストが課されます。いかなる分野の、あるいは世界最高の法科大学院で博士号を取得した人でもパスできないような試験です。ミシシッピやアラバマ、その他ブラック地帯の郡の中には、登録して投票しようとする黒人に、経済的な報復を課すところがあります。肉体的な暴力を受けたり、時には殺されることすらあります。この地域で私たちがやるべきことは、どっさりなのです。

先ほど、経済的正義について触れました。280億ドルはきっと多額に聞こえたことでしょう。確かに大金です。しかし、話を先に進めて全体像を正直にお見せすると、別の側面も見えます。


アメリカの黒人家庭の 42 パーセントの年収は、いまだに2000ドル未満です。一方、年収が2000ドル未満の白人家庭は16パーセントです。黒人の21パーセントの年収は1000ドル以下ですが、年収1000ドル未満の白人家庭は5パーセントです。さらに、アメリカの黒人家庭の 88 パーセントの年収は5000ドル未満ですが、年収が5000ドル未満の白人家庭は58 パーセントにすぎないのが事実です。持てる者と持たざる者との間にはいまだに大きな格差があるのです。もしアメリカが成長と進歩、発展を続け、偉大な国に向かって進んでいくのなら、この問題を解決せざるをえません。



疎外者を生むことの危険

キング:経済問題を考えるうえで、もうひとつ考慮にいれなければならない事実は、自分がいる社会に何の利害関係も感じられないような人たちを生み出す社会を構築することは、何よりも危険だということです。そして、何よりも危険なのは、人生は出口の標識の無い、長くて荒涼とした回廊にすぎないと思い込む人々を大量に生み出す社会を作りだすことです。このような人々は絶望に陥ります。仕事がなく、自分の子供を教育することができず、ちゃんとした家に住めず、適切な健康施設を利用できないからです。

私たちはいつも人種統合についてのさまざまな神話を聞かされ、人種統合などすべきではないという理由をあれこれと聞かされます。現時点で、人種統合に反対する人たちが、よく口にするのは、「たとえば、公立校で人種統合をおこなうと、白人は一世代、後退する」という説明です。この人たちは、黒人コミュニティの文化的遅れを語りたがります。そしてこう続けます。「黒人は犯罪者だ。アメリカのどこの市でも犯罪率が最高だ」。そして、統合すべきではない理由を際限なく繰り広げます。

しかし、私は、それには答えがあると思います。もし黒人コミュニティ内に文化的遅れがあるとしたら、—そして確かにあります—遅れが生じた原因は、分離と差別です。原因は、長年の奴隷制と分離です。犯罪という対応は人種に基づくのではなく、環境によります。貧困、経済的窮乏、社会的な孤立―人種が何であれ、こうしたものすべてが犯罪を生みます。 

人種的分離の悲劇的な結果をその継続を論じる論理に用いるのは、まるで拷問です。さかのぼってみる必要があります。この点をよく見て、我が国のいたるところで経済的正義を実現するよう尽力する必要があります。

 ゲットーという形をとった差別待遇

キング:先ほど、人種的分離はアメリカでは息の根を止めようとしていると申し上げました。が、まだ無くなったわけではありません。

法的な分離の日はようやく過去のものになろうとしています。「法律上の」分離、すなわち、国や特定の州の法律をその根拠とする分離は、公民権法と最高裁判所の裁決のおかげでようやく終わりをとげました。ごく少数の例外的な場合を除いて、黒人が軽食堂で食事をすることができなかったり、モテルやホテルにチェックインできない日は、過去のものになりました。我々はそのような日を迅速に過去のものにしています。

けれども、別の形の分離が出現しています。それは、住居差別、失業、公立校での「事実上の」分離を通してたち現れます。ゲットー化状態が現存し、これが多くの問題を生み出し、私たちに日常的な取り組みを強いる慢性的な「事実上の」分離を生んでいます。私たちはこの問題に直面しており、対処を強いられているのです。そして、私たちは断固として取り組んでいきます。

分離は死の床についていると私は確信しており、それを代表する人物が、アメリカにいようと英国のロンドンにいようと、そのシステムは死の床にあると確信しています。

どんな国であれ民主主義が息づくときには、分離は死なざるを得ないことを私たちは皆、知っています。私は、私たちが分離を排さなければならないのは、私たちのイメージを良くするために役立つからだけではなく、世界の中で私たちのイメージを良くするのに役立つからだと、アメリカのいたるところで説いてきました。私たちが分離を排さなければならないのは、そうすることでアジアとアフリカの人たちを引き付けるからです。

これはもちろん、役に立つことであり、重要なことです。しかし、結局のところ、人種差別はアメリカの社会から、そしてあらゆる社会から撲滅されなければなりません。倫理的に間違っているからです。ですから、人種的分離を取り除くために、全員が立ち上がり、大規模な行動プログラムを展開する必要があります。

時が解決するという神話




キング:さて、私たちの社会に出回っている—そしておそらくはあなたの社会や全世界ででまわり—私たちが差別と分離を取り除くために必要とする行動プログラムを展開する妨げとなっている考えについて、ひとつふたつ、触れておきたいと思います。そのひとつは、私が「時間の神話」と呼ぶものです。

アメリカや南アフリカ、あるいはその他どこでも、人種的な不正義の問題は、時間だけが解決できると説く人たちがいます。アメリカ国内で、そして白人コミュニティの私たちの同志にむかって、この人たちが幾度となくこういっていることを私は知っています。「愛想よく、辛抱し、祈り続けなさい。そうすれば、100年か200年たてば問題はおのずと解決しますよ」と。

私たちはそんな言葉を聴かされ、時間の神話と共に生きてきました。そんな神話に対する私の唯一の答えは、時間は中立だということです。時間は建設的にも破壊的にも使えます。そして正直に申し上げざるを得ません。往々にして悪意の勢力は善意の勢力よりもずっと効果的に時間を使ってきたと私は確信しています。私たちはこの世代に、悪人たちの辛らつなことばと暴力的な行動にさらされるだけでなく、「時を待て」と言い立ち上がろうとしない善人たちの恐ろしい沈黙と無関心を悔やむことにもなりかねません。

途上のどこかで、人間の進歩が必然性の車輪にのって転がり込むことなど、けっしてありません。そのことを見ておく必要があります。進歩は、神と共にすすんで働こうと決意した献身的な個人のたゆみない取り組みと絶えざる仕事を通して出現するのです。この大変な努力がなければ、時間は社会を停滞させる原始的な勢力の協力者になるだけです。ですから、私たちは、時間を助けなければなりません。正しいことをする機は、つねに熟していることを理解しなければなりません。これは、きわめて重要で、必要なことです。

心を法で変えられるか

バリー・ゴールドウォーター

キング:さて、我が国で大いに語られ、世界のほかの国でも間違いなく出回っていると思われるもうひとつの神話は、人間関係の領域に属する問題を法制化で解決するのは不可能だという考えです。住居や職の問題、その他こういった問題は、法律では解決できない。心を変えなければだめだと言うのです。

つい最近も、ある大統領候補が、そんなことを言いました。ゴールドウォーター氏は、法律制定によって可能になることはなにひとつないとまじめに信じていると思いますよ。彼は上院ですべてに反対票を投じましたからね。公民権法案も含めて、すべてです。彼は選挙キャンペーン中、国のいたるところで、法制化の必要はない、法制化ではこの問題に対処できないといい続けました。でもご親切に、心を変えなければならないのだとも付け加えました。

さて、この点で私は少なくとも途中まで、ブラザー・ゴールドウォーターと歩みを共にします。彼は正しい、と私は思います。この問題をアメリカで、そして全世界で解決するには、最終的には偏見をもつ人の心を変えなければなりません。人類が直面しているこの問題を解決しようとするなら、すべての白人は、心の奥底を見つめそこに偏見があればすべて取り除き、黒人、そして非白人種を、法がそう述べているからではなく、それが正しく自然であるという理由で正当に取り扱わねばならないと理解しなければなりません。私は、この点で100パーセント、賛成です。問題を解決するには、最終的には、ひとは法が強制するから従うのではなく、強制できないことにも従う、威厳ある高みに上らなければなりません。

しかしそうではあっても、私の進む道は、同じではありません。ゴールドウォーター氏や法制化ではだめだという人たちとは、ここで決別です。確かに、統合を法制化できないのは本当かもしれません。だが、分離廃止は法制化できます。道徳規範は法制化できないかもしれませんが、行動を規制することはできます。法律で心を変えることはできないかもしれませんが、心無い人を抑えることはできます。法によって誰かに私を愛させることはできなくても、私をリンチにかけるのを抑えることはできます。これだけでも、たいしたことです。

グッドマン: 1964年12月7日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのロンドンでの演説です。

非暴力の哲学


 
ガンジー

キング: さて、ご存知のように、私たちは、人種分離を撤廃し最終的には統合を実現するために、アメリカで闘ってきました。

この闘いには、それを補強する哲学があります。非暴力の哲学と非暴力の抵抗という手法です。我々の闘いを補強しているこの手法や哲学について、2~3、お話ししたいと思います。


まず最初に言いたいのは、抑圧された人々の自由と正義を求める闘いにおいて、非暴力は手にはいる中で最も強力な武器だと私がいまなお確信しているということです。


相手の道徳的な防御をむき出しにし敵を武装解除する手段になります。相手の士気を弱め、同時に良心に作用するため、相手はどうしたらよいかわからなくなります。


相手があなたを殴らないなら、上出来です。もし殴るなら、あなたは報復せず一撃を受け止める静かな勇気を育てます。相手があなたを留置場にいれなければ、上出来です。でも留置場にいれるなら、あなたはそこに行き、その場所を恥辱の牢から自由と人間の尊厳の安息所に変えるのです。


もし相手があなたを殺そうとしたら、あなたは、そのために死ぬ価値があるとても大切で、とても貴重で、永遠に真実なものがあるという内面的な信念を育くみます。そしてもし、そのために死ぬ何かをみつけられないとしたら、その人は生きるのに向いていません。非暴力の教えとは、そういうものなのです。




目的と手段


キング:さらにもうひとつ言えば、道徳的な手段を通して道徳的な目的を確実なものにする闘い方を与えてくれます。

歴史をめぐる大論争のひとつは、目的と手段をめぐる論争です。プラトンの対話にさかのぼる時代から、マキャベリなどを通して、目的は手段を正当化すると論じる人たちがいます。しかし、非暴力の哲学は、真の意味で、目的は手段に内在していると説きます。手段は目的の実現における理想、そして進行中の目的を表わすのです。

ですから、歴史の長い流れの中で、非道徳的な手段によって道徳的な目的をもたらすことはできません。なんらかの形で、ひとは目的と手段を首尾一貫させる必要を理解します。これが、最高の状態での非暴力哲学のひとつです。道徳的な手段を通して道徳的な目標をめざすことを可能にする闘い方を与えてくれます。


愛について


キング:また、悪に対して、不正なシステムに対して、持てる力のすべてと心のすべてを使って闘うことができるとも教えます。たとえ不正なシステムを憎んだとしても、悪のシステムの加害者に対して能動的な友好の姿勢と理解、そして愛さえももち続けるのです。

これは非暴力において、もっとも誤解されているところです。非暴力の手法をとりたくない人たちは、愛について語る私たちに関して、悪口をどっさり浴びせています。だが、私はいまも、信じています。なぜなら、世界を動かしているのは愛であると私は確信し、このような愛は社会を変革する強力な力になるといまも信じているからです。

私が言っているのは、脆弱な愛ではありません。感情にかられたたわごとや、感傷ではありません。愛(affection)のこもった反応とは別物です。

抑圧されている人たちが暴力的に抑圧する人を愛情をこめて愛するなんてナンセンスですし、私はそんなアドバイスをしたことは一度もありません。 イエスは「汝の敵を愛せよ」とは言いましたが、ありがたいことに「汝の敵を好きになれ」といっていません。

好きになるのが難しい人たちがいますが、愛は好意よりずっと大きいものです。愛とは、すべての人への創造的なあがないの善意を理解することです。神学者はこのような愛をギリシャ語のアガペということばで語っています。見返りに何も求めないあふれる愛です。これを培うと邪悪な行為を憎みながら、それを行なう人をも愛することができる高みにのぼります。そして、これは可能だと私は信じています。

精神分析家たちは、憎悪は、憎まれる人だけではなく憎む人にとっても危険な力だと告げています。無意識の中で起こる多くの奇妙なこと、内的葛藤の多くは、憎悪に根ざしています。「愛するか、滅びるか」なのです。エーリッヒ・フロムが『愛するということ』という本を書き、愛は生をひとつに統一する至上の力だといったのも、このためです。

分離に対して立ち上がり、もてる力のすべてで植民地主義に抗して立ち上がり、それでもこうした不正なシステムの加害者を憎まないでいられる、そんな闘い方を手にすることができるのは、すばらしいことです。こうした力強い非暴力行動、自らを大衆行動へと組織化していくこうした愛を通してこそ、私たちの国と世界における耳を聾する不和を兄弟同士の美しいシンフォニーに変えることができると、私は固く信じています。これこそが、私たちが直面している大きなチャレンジなのです。




南アフリカへの思い

ネルソン・マンデラ



キング:非暴力は我が国における状況だけでも、モハンダス・K・ガンジーのすばらしい仕事が示したインドでのすばらしい例だけでもなく、私たちがまだ目にしたことがないような、あるいは以前に使ったことがないような方法や状況でも効果があると私は考えています。こういった背景をふまえて、南アフリカについてひとこと申し上げたいと思います。そのために、ステートメントを読み上げたいと思います。そうすることで、南アフリカについて私の頭の中にあることをあますところなくお伝えできると思うからです。

今晩、この席に南アフリカの方々がいらっしゃることと思います。その中には現地で自由を求める長い闘いに関わってこられた方もいらっしゃいます。アメリカでの我々の自由と正義を求める闘いもまた、長く困難なものですが、その中で私たちは、南アフリカでのはるかに命がけの闘いに関わっている方々と自分たちを重ね合わせています。アフリカの人々と人種を異にする彼らの友人が半世紀の間、非暴力の方法で自由を勝ち取る努力を重ねてこられたことを私たちは知っています。私たちは、チーフ・ルツリのリーダーシップに尊敬の念を抱き、その非暴力に対して国がただただ暴力と抑圧の強化で答え、ついにはシャープビルでの虐殺事件などを引き起こしたことを知っています。

確かに、ミシシッピとアラバマでは、南アフリカ人だったら自国を思い起こすに違いないような出来事がたくさん起きていますが、それでも、ミシシッピ州ですら、黒人有権者たちを登録させるための組織を作ることができます。マスコミと話をすることもできます。人々を非暴力行動へ向けて組織化することができるのです。しかし南アフリカでは、どんなに穏やかな形の非暴力抵抗であっても、何年もの投獄を科されます。何年にもわたり、リーダーたちは活動を制限され、沈黙を強いられ、投獄されています。そのような状況で、絶望のあまり、破壊工作など別の方法に向かう人々がいるのは理解できます。





現在、ネルソン・マンデラやロバート・ソブクウェなどの偉大な指導者たちも合わせて数百人の人たちがロベン島の刑務所で無為の日々を送らされています。拷問やサディスティックな形態の尋問法を用いて人間をたたきのめし、時には自殺にまで追い込む、武装した情容赦のない巨大な国家を相手に、南アフリカ国内の武装した反対勢力は、当面の間、沈黙させられているようにみえます。民衆の集団は抑え込まれているようにみえ、当面、抑圧から離脱することは不可能にみえます。

私は「みえます」ということばを強調します。なぜなら、勢力を誇る警察国家が抑えつける静穏な表の顔の水面下でどんな感情と計画が煮えくりかえっているか、想像がつくからです。 我々は、アフリカのほかの国々で、そして実のところ全世界で、どのような感情が煮えくりかえっているか、知っています。人種戦争の危険について、私たちは繰り返し耳にし、警告を得てきました。


大量の南アフリカ人が人間性と尊厳と機会、あらゆる人権を否定されているというこの状況、人一倍勇敢で最良の南アフリカ人が長年、監獄に入れられ、中にはすでに処刑された人もいるというこの状況に対し、アメリカと英国の我々は独自の責任を負っています。なぜなら私たちは、投資を通して、断固たる行動を取ろうとしない我が国の政府を通して、南アフリカの専制政治を強化しているからです。その点で、私たちは有罪だからです。


私たちの責任は、私たちに独特な機会を提示します。 南アフリカに自由と正義をもたらすことが可能な形の非暴力行動に加わることは可能なのです。それは、アフリカの指導者たちが呼びかけている経済制裁の大衆運動です。


核兵器の恐ろしい陰で生きるいまの世界で、経済的圧力の行使を完結させる必要に我々は気づいているはずです。


なぜ、貿易はあらゆる国あらゆるイデオロギーにおいて聖なるものとみなされているのでしょうか?なぜ、我が国の政府、そして英国の皆さんの政府は、南アフリカや韓国、ベトナムで残虐行為が起きたときにしか危機を認ないとでもいうかのように、即時の効果的な取り組みを拒むのでしょう?


英国とアメリカが明日の朝、南アフリカの品物は買わない、南アフリカの金は買わないと決意し石油の通商を禁止したなら、私たちの投資家と資本家が、存在しているのが明らかな人種的専制への支援を引き上げたなら、アパルトヘイトは終わりをとげるでしょう。そして南アフリカのあらゆる人種の多数派がついに、望み通りの共同の社会を築くことができるのです。


民主主義のチャレンジ


キング: これは、世界の国々が直面しているチャレンジです。そして神は私たちに対し、このチェレンジに応じる機会、人が非人間的だった暗黒の昨日を正義と平和と善意の輝ける明日へと変革する偉大で創造的な運動の一端を担う機会を与えてくださっています。

人種不正義の問題はどこかひとつの国に限られたものではありません。この問題は地球のあらゆるところに広がっています。

ここロンドン、ここ英国では、おびただしい数の非白人たちが、数多くの地—西インド諸島、パキスタン、インド、アフリカから移住してきています。彼らにはこの偉大な地に来る権利があります。この地で正義と民主主義を期待する正当な権利があります。

英国は永遠に警戒の目を光らせるに違いありません。もしそうではなくても、アメリカのハーレムにあるのと同じようなゲットーが進展することでしょう。不正義、雇用の不平等という私たちと同じ問題が進展することでしょう。

この国のすべての善意の市民は、民主主義をすべての人たちの現実にするというチャレンジに直面しています。この地のすべての人たちが共に生きることができるように、すべての人たちが兄弟として共に生きることができるようにするというチェレンジです。

非暴力か滅亡か

キング:どんな学問分野の中にも、ステレオタイプになり使いふるされることばがあります。どんな学問分野にもその分野特有の学術語があります。

現代心理学において、おそらくほかのどんな学術語よりもよく使われるのはは、「不適応」ということばです。きっとお聞きになったことがあるでしょう。これは、現代児童心理学で鳴り響くスローガンです。

もちろん私たちはみな、神経症的性格や統合失調的性格を避けるため、適応した暮らしを送りたいと望みます。

しかし、私は今夜のしめくくりとして、こう申し上げなければなりません。私の国には、そして世界には、そこに自分が適応していないということを誇らしく思うものが存在しているということです。すべての善意の人たちに、「良い社会が実現するまで適応しないでくださ」とお願いしたくなるものが存在しています。

正直に申し上げなければなりません。私は分離や差別、植民地主義などの勢力に適応する気はありません。

正直に申し上げねばなりません。私は宗教的偏狭に適応する気はありません。多くの人から必需品を取り上げ少数に贅沢を手渡す経済状態に適応する気はありません。

今夜、皆さんに申し上げます。私は軍国主義の狂気と物理的暴力の自己敗北的な効果に適応する気はありません。なぜならスプートニクやエクスプローラーが宇宙を飛び交い、誘導弾道ミサイルが成層圏を抜けて死のハイウェイを刻む時代に、戦争で勝利する国などないからです。

もはや、暴力か非暴力かの選択ではありません。非暴力か存在しなくなるか、の選択なのです。

軍縮にとってかわるもの、核実験のより大規模な停止にとってかわるもの、国連を強化し世界全体を武装解除することにとってかわるもの、それは、壊滅の深淵に墜落した文明なのかもしれません。


ですから私は軍国主義の狂気にけっして適応する気はないと、皆様に断言いたします。


創造的不適応のすすめ





キング:全世界はいま、新しい組織を必要としているのかもしれません—国際創造的不適応推進協会です—男性も女性も預言者アモスのように不適応になるのです。アモスは不正義のただなかで、何世紀にもわたって響きわたることば「正義を洪水のように、義を大河のように流れさせよ」をとどろかせた預言者です。

また、我が国の偉大な大統領アブラハム・リンカーンのように不適応になるのです。リンカーンは、半分が奴隷、半分が自由の状態ではアメリカは生き延びられないと見ぬくことができるビジョンの持ち主でした。

トマス・ジェファーソンも不適応でした。奴隷制に驚くほど適応していた時代のただ中で、宇宙の高みにのぼり、歴史のページに、こんなことばを刻みつけることができました。

「我々は次の真実を自明のものと考える。―すべての人は平等に創造され、創造主から不可分の権利を与えられている。生命、自由、そして幸福の追求の権利は守られるべきである」と。

ナザレのイエスも不適応でした。当時の男女に向かって「剣で生きるものは、剣で滅びる」と言いました。

このような不適応を通して、私たちは、人の非人間性という長く荒涼とした真夜中から、明るく輝く自由と正義の夜明けへと脱出することができるのです。

勝利はわれらに


キング:皆様、私はいまなお、人類がそのようなチャンスに向けて浮上すると信じています。暗黒の「時」にもかかわらず、困難な「分」にも関わらず、世界が抱える問題は巨大で、その詳細は混迷をきわめ、昨今の日々は感情的な緊張をはらんでいますが、私はいまなお未来を信じており、私たちは兄弟愛の社会、平和の社会を築くことが出来ると信じています。

私たちが運動の中で歌う歌があります。手を取り合ってよく歌ったものです。留置所の中で留置所を超えて。時には12人用に作られた獄房に15人、20人入れられることもありますが、私たちはひるまず、声をあげて歌いました。

昨日の午後、セントポール寺院で説教をした時にその歌の話をしました。

「勝利はわれらに。勝利はわれらに。心の奥底から、私たちは信じている。勝利はわれらに」。

人類は勝利を手にし、悪の勢力は敗北を帰すと、私は信じています。そう信じるのは、カーライルの「どんな嘘も永遠に生きることはない」ということばが正しいからです。

勝利を手にすると私が信じるのは、「地にたたきつけられた真実は再び立ち上がる」というウィリアム・カレン・ブライアントのことばは正しいからです。

勝利を手にすると信じるのは、ジェイムズ・ラッセル・ロウエルのこのことば「真実は永遠に処刑台の上 / 不正は永遠の玉座に。/ だが、処刑台は未来を揺るがせ、 / その時には知られるぬものの背後で/ 神は影に立ち、 / 被造物を見守り続ける」が、正しいからです。

こう信じるからこそ、私たちは絶望の忠告を押し留め、悲観の暗い部屋に新たな光をもたらすことができるのです。

こう信じるからこそ、未解決の宇宙の挽歌を平和と兄弟愛の創造的な聖歌に変えることができるのです。

こう信じるからこそ、私たちは神のすべての子供たち—黒人も白人もユダヤ人もキリスト教徒も、プロテスタントもカトリック教徒もヒンズー教徒もムスリムも有神論者も無神論者も—手に手をさしのべて、いにしえの黒人霊歌のことばでこう歌うことができる日の到来を早めることができるのです。

「ついに自由が!ついに自由が!神よ、感謝いたします。私たちの手についに自由が!」

問題が解決するまでに、私たちにはたどるべき長い長い道がありますが、神のご加護で私たちは大きな歩みを記してきました。

私たちは長い長い道をたどってきましたが、黒人奴隷の説教師のことばを引用してしめくくりたいと思います。文法にも言い回しにも少しおかしなところがありますが、この説教師が口にしたことばは象徴的な深さをたたています。

「神さま、私たちは、自分がこうありたいと思うものではありません。そうあるべきものでもありません。これからそうなっていくものでもありません。でも、神のご加護で、私たちは、かつての私たちではありません」。

ありがとうございました。

©Hideko Otake, 2016

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